NPO法人 船橋障害者自立生活センター フリースペース 2020年7月16日 更新

1. 自立生活へのプロローグ

 「光陰矢の如し」とはよくいわれるが、時の流れは本当に早いもので、私が、長年住み慣れた親元から離れて、F市の中心部に程近い所にアパートを借りて暮らしはじめて、もう7か月が過ぎた。この間、いくつかのトラブルやアクシデント(これらの「事件」の顛末については機会を改めて詳しく書くつもり)もないわけではなかったが、案ずるより生むが易しというわけで、日常の生活自体は、多くの人に支えられて想像していたよりはるかに順調に推移している。ただ、「親元から離れて」とはいっても、さまざまな事情から、今のところは週末になると実家に帰り、週明けにアパートに戻るというようなことを繰り返しており、まだまだ本来の意味での「自立生活」とは言えない状況にある。
 このシリーズでは、そうした毎日の生活の様子を日記のような形で出来るだけ同時進行的に捉えるように心掛けたいと思っている。そして、たくさんの経験を積み重ね、いろいろな問題を考えることによつて、私という一人の重度障害者が本当の「自立生活」に一歩でも近づくことができ、そうした試行錯誤の過程を少しでも読者に知っていただくことができれば、それに勝る喜びびはない。
 それにつけても、近頃、「自立」という言葉が大はやりのようである。いわく「女性の自立」、「高齢者の自立」、そして「障害者の自立」etc、、、。どうも、猫も杓子も、というと語弊があるかもしれないが、この国では、多くの人たちが自立に向かっているような気がする時がある。
 でも、そうした状況を裏返してみると、そのように声高に叫ばなくてはならないほどに、誰にとっても本当の意味での自立は難しい、ということかもしれない。特に私を含めた重度の障害を持つ者にとつては、一口に自立といってもいろいろと複雑な要素が絡んできて、一筋縄ではいかない。
 他の多くの重度障害者と同じく、私の場合も「自立」を考える時にネックとなることがいくつもあった。いや、正確に言えば、今も厳然とたちはだかっているというべきであろう。
 私は、出生時の障害により歩行はおろか立つことも出来ず、夜寝る時以外は一日中電動車イスに座っている。そんな私が自立生活を目指すようになったプロセスを簡単に振り返ってみたい。
 学齢に達すると同時に東京の施設に入園した私は、そこで併設の養護学枚で教育を受けながら機能訓練や医学的な治療を受けるという生活を2年2か月にわたって続けた。考えてみると、この時の経験が自立生活を志向する原点になっているような気がする。つまり、その頃から将来、親や兄弟がいなくなっても、施設にだけは入りたくない、と子供心に思っていた。私にとって施設での生活はそれほどに閉鎖的で自由のないものに感じられていた。その施設では、初めの1年間を訓練病棟で、そして残りの期間を治療病棟で過ごした。訓練病棟にいる間は、毎日学校に通ったが、治療病棟に移ると、先生が午後ベッドのところに来て授業らしきことをするという形になり、クラスメイトとも会う機会も少なくなった。
 実際の訓練としては、ロボットのように大掛かりな補装具をつけて立つ訓練や、足にギブスを巻いて矯正する治療を受けたが、結局めぼしい効果は得られなかった。やがて、治療も訓練も更なる成果が期待できない、ということで、退園することになった。退園に際しては、内科と整形外科の各医師、ケースワーカー、機能訓練士、それに担任の教師などを回って、今後の生活についてのアドヴァイスや家庭での注意事項などを聞いて歩くのが習わしになっていたのだが、私に対しては異口同音に「杉井君は体が弱いので、家に帰ったら、大事にして寝かせておいてください」と言われた。
 当時の私は、確かに毎月定期便のように高熱を出すほど弱かったのである。ところが、実際家に帰り、学校に通うようになると、次第に体力がつき、高熱を出すことも徐々に少なくなっていった。恐らく、施設の中だけの生活と違って、毎日の通学などで風に吹かれ、日の光に当たることで体力がついていったのであろう。そして何よりも、近所の子供たちと遊んだりする中で、多少なりとも社会の空気というか、外からの刺激を受けられるようになったことが大きく影響したようだ。それにしても、当時の両親と私自身がこうした「専門家」の言いつけを守って”寝たきり”の生活をしていたら今頃どうなっていただろうか。想像しただけで空恐ろしくなると同時に、彼らが現在の私の生活を見たら何と言うか、聞いてみたい気もする。
 施設から家に戻り、1年間近所の普通学枚に通った後、地元に初めての養護学校が開設され、高等部を卒業するまでの8年7か月の間そこに通い続けた。当時は、養護学枚がまだ「義務化」にはなっておらず、生徒は比較的障害の軽い者が多く、私は全校生徒の中でも最も障害が重い生徒の一人であった。
 養護学校を卒業する時期が近くなっても、やはり「障害が重い」という理由で学校側としてのはっきりとした進路指導は行われなかった。いつだったか「タバコ屋でもやったらどうか」という話がでたこともあったが、それも具体的な話ではなく、障害者がタバコ屋をはじめればこれこれの特典がある、という程度の話だったように記憶している。
 結局、これといった進路というか生活の方向性が決まらないまま、私は学校生活を終えていわゆる「在宅」の生活に入ることになった。家では、本を読んだり、音楽を聞いたりという毎日で、特に将来の生活設計を考えるというわけでもなく、ただぼんやりと過ごしていたように思う。
 そんな生活を一変させたのが、それから数年たったある日に届けられた1台の電動車イスであった。生まれて初めて自分で好きな所へ行くという喜びを味わった私は、まさに水を得た魚のようにいたるところに出掛けては、見聞をひろめ、遅れ馳せながら少しずつ社会的な経験を積み重ねるようになった。今から考えると、この時期が自立への準備期間だったのかもしれない。
 やがて、電車を使って遠出もするようになり、そのうちにいくつかの障害者運動にも関わるようになっていった。アメリカの障害者が起こしたという「自立生活運動」についての情報を知ったのもその頃であった。そして偶然、当時来日したアメリカの障害者と数日間一緒に旅行をする機会があった。彼らは、自立生活運動の思想を日本に広めることを目的としてやってきたもので、話を聞けば、主体的に生きるために、日常の生活に必要な介助者を自分で選び、その人を有料で雇用する、というのである。それまで、御多分にもれず、自力で出来ることは時間がかかっても出来るだけ自分でやり、どうしても出来ないところがあれば周囲のボランティアなどに「頭を下げて」お願いしてやってもらうというように教えられ、その習慣がすっかり身についてしまっていた私にとっては、大幅な発想の転換が必要であり、驚きと戸惑いの入り混じった複雑な思いが交錯していた。彼らの陽気な話しぶりや、アメリカ流の「自立生活」は確かに魅力的であったし、一つの考え方としてはそれなりに理解できるものではあったが、日本とアメリカの風土や社会的な条件の違いを考えると、日本で果たして同じことができるのだろうか、というのが私の漠然とした疑問であった。
 ましてや、それから数年後に自分自身が「自立生活センター」の設立に加わり、そのシステムを利用して実際に自立生活を始めるようになるとは予想もしないことであった。

2. 転機

 人間が一生を過ごすうえで、「転機」と思われる時期が必ず何度かはある。大抵の人の場合、一定の年齢に達すれば否応なしに進学、就職、結婚などの節目を通過しなければならず、その都度それぞれに悩み、苦しみ、そしてその時々で最善と思われる選択をして、また時には挫折を味わったりしながら、次第に自分のライフスタイルを築き上げていくものであろう。
 ところが、重度障害者の場合、これらの「転機」とはほとんど無縁の人生を送る人も少なくない。養護学校では小学校から高等部まで続いているので、さらにその上を目指す人以外は「進学」で頭を悩ませることもないし、稼得能力がなければ「就職」も縁がないわけで、卒業後は、在宅の生活になるか施設に入るかの違いはあるにしても、その先はほぼ一生変化のない毎日を送ることになる人も多い。つまり、自分の人生でありながら、自分で悩み、苦しんで、その結果として何らかの選択をして人生の方向性を決めるという経験をしないで一生を過すのである。というよりむしろ、周囲の人たちはもとより自分でも、そのようにするよりほかに選択の余地がないと考えてしまうのである。敢えて自分の選択を貫こうとすれば、人並み外れた強い意志と多くの努力が要求される。周囲や社会との間の摩擦も決して少なくはない。その意味でも、今よりもさらに劣悪な社会的環境の中で、重度の障害にもかかわらず、独学で何らかの技術を身に付けたり、立派に自分の家庭を持つなど、妥協せずに自らの生活を確立されてきた諸先輩のバイタリティーには改めて敬服してしまう。
 前回も書いたように、私の場合も、養護学校から在宅生活というコースを辿ったわけだが、それ以外の生き方があるとは自分自身も考えもしないことであった。今になってみると、もっと若い頃に自らの可能性を拡げる努力をしておけばよかったと悔やむこともあるが、すべては後の祭りである。結局、当時の私は、直接障害には無関係のことも含めて、あらゆる事を自分の障害や社会環境のせいにしてしまい、自分の可能性を信じて前進するということを放棄してしまっていたように思われる。したがって、周囲に流されるだけで自分で人生設計を考えるという段階には程遠い精神状態で過ごしていたのであった。
 そんな私にとって、現在の生活にいたるまでに、三つの「転機」があったように思う。一つは電動車椅子を使うようになったことである。これについては前回も書いたが、電動車椅子を使用することによって、単に行動半径が拡大しただけでなく、一人で行動することで、一時的にせよ、家族を中心とする周囲の庇護を離れ、自分で考えて自分で行動するという習慣が次第に身につき、遅まきながら自分と周囲や社会との関係、そして自分の将来のことやその可能性などについて考えるようになっていったことが最大の効用であったと思う。
 電動車椅子を使用するようになってからちょうど10年後、私は「放送大学」という通信制の大学に入学した。その名の通り、テレビやラジオなどの放送を通じて授業を行う大学だが、それでもやはりスクーリングや各学期末に行われる試験には学習センターまで出掛ける必要があり、この入学も電動車椅子の存在なしには考えられないことであった。
 養護学校での生活が長かっただけに、障害のない人たちと机を並べて共に学べるということも大きな喜びであった。大学側も、学習センターの設備はもとより、試験の際には特別試験室を用意してワープロの使用も認めるなど、最大限の配慮をしてくれた。私は、一般の大学の人文学部に相当する「人間の探究」という専攻課程に属して、比較文化論などを学んだ。そして、卒業論文にあたる「専攻特論」では、前回書いたアメリカの障害者との交流の経験などをきっかけとして、「自立生活運動を通して見る日本とアメリカの文化の違いについて」というテーマを選んでいた。しかもそれは、無意識のうちに自然に選んでしまったテーマであり、これも、やはり「自立」ということが自分の中で徐々に大きなテーマとなってきていたことの表れかもしれない。
 こうして、ようやく大学を卒業し、気分的に少しホッとしていた矢先、同じ年の夏に第二の「転機」が突然に訪れた。それが父の死であった。父は、以前から持病に苦しんではいたものの、すぐに死に結びつくような状態ではないと思っていた。周囲の者だけでなく、恐らく父自身もそう信じていたであろう。父は、商家に生まれたが、若い時に、思うところあってか、社会福祉を職業として選んだ。そして、たまたま自分の息子が障害を持って生まれてきたことも手伝って、仕事というより運動として、特に地方では障害児に対する施策がほとんど手付かずで、ほとんどの子供がいくつになっても家の中に籠もりきりの生活を余儀なくされていた時代に、養護学校の設置などに熱を入れたこともあった。
 何れにしても、突然の父の死は、改めて私に自立という問題を差し迫った課題として突き付ける形となった。妹が嫁いで以来続いていた家族三人での生活は、母と私の二人きりでの暮らしへと変わり、当然のことながら、私の日常の生活の介助も母一人の手にかかってくることになった。母は、そのことについて何も言わないが、年齢的、体力的なことを考えると、当面は仮に何とか私の介助を一人でこなせたとしても、早晩、限界が来ることは明らかであった。それに、介助の問題を抜きにしても、それまでの何年かの経験を通して、自分の生活を自分でつくるということに多少の自信を持ち始めていた時期でもあったし、年齢的に考えても、そろそろ一歩を踏み出さないと、このままの状態で一生終わってしまうというような焦りもあった。
 ただ、そうはいっても、実際に「自立生活」を始めるには、介助者の問題、住まいの問題、お金の問題など、考えなければならない問題が数多くあった。率直に言って、それらの問題について何からどうやって手をつけていけばいいのか、見当がつかなかった。それに、現在の公的な各種の制度も、そうした状況にもまったく実効性を持たないものであることもわかってきた。では、どうすればいいのか。これといった見通しもつかないままに、その年も年末を迎えていた。
 明けて翌年、わが家は父の喪に服す静かな年明けを迎えていた。ところが、そんな正月のしかも元旦早々に、二人の来客が私を訪れた。一人は、長く同じ障害者グループに属していたY君であり、もう一人はY君の介助でやってきたK君であった。そして、彼らの来訪が、私にとって第三の転機となったのである。Y君の話を聞いて驚いた。それは、「自立生活センターを一緒に作りたい」というものであった。Y君は、その前の年に、東京の自立生活センターが主催した研修ツアーに参加して、アメリカの自立生活センターを実際に見て回り、大きな影響を受けて帰国したばかりであった。
 そして、自分も作りたいという夢を持つようになり、年齢も近く、障害などにも共通点の多い私にまず声をかけてきたということのようであった。私は、突然の話に戸惑いながらも、何のためらいもなしに、何故か二つ返事でOKの返事をしていた。Y君の思いはともかくとして、当時の私の気持ちとしては、センターを作って運動を始めるというよりも、むしろ自分にとって当面の課題である自身の自立生活を実現するための手段として、後の苦労もあまり考えずに、その話に乗るという意識が強かったのである。
 こうして、私たちの悪戦苦闘の歴史がスタートすることになったのである。

3. 温室育ち

 「自立生活センターを作ろう。そして、自分たちの自立生活を実現しよう」ということで、Y君と私は合意ができはしたが、実際にセンターが組織として動き出し、さらに自立生活が実現するまでの道のりは、自分たちの非力さに主な原因があるというものの、気の遠くなるほどに長いものであった。
 前にも書いたように、私は、養護学校という「温室」にいた期間が長く、年鈴に相応した本当の意味での社会的経験を十分に積んだとは言えない状況にあった。養護学校の時代に、先生から「社会に出たら甘えを許されない厳しい現実が待っているんだぞ」と、半ば脅しのように言われていた。ところが、少なくとも当時の養護学校には、具体的にどこがどんなふうに厳しいのか、という疑問に答えるだけの説明も、また、身をもって社会的経験を増やすためのカリキュラムも用意されてはいなかった。それに、私の場合は8年6ヵ月も同じ学校に通ったのだが、その間、一部の人を除いてクラスのメンバーの入れ替えもなかった。したがって、小学部から中学部、あるいは中学部から高等部へと進み、年齢を重ねても、同じスクールバスに乗って同じ学校に通い、私服から学生服に変わっても、生活環境が特に変わるわけでもなく、また、周囲の顔ぶれも変わらない。激しい進学競争があるわけでもない。そうした状況の中にいると、同年代の子供が受ける精神的な刺激を十分に受けることがなく、周りの環境にあわせて自分を変えるとか、高い目標を胸に努力をするなど、人間的な成長が滞りがちになる。
 一方、そうした状況は卒業後もあまり変わることがなく、ただ家の中で家族の庇護を受け、社会と真正面から向き合うということもほとんどなく、したがって、一般社会の人たちの障害者に対するいろいろな見方さえも、直接体験することなく、年を重ねていた。特に、本当なら心の変化や成長が一番大きいはずの青年期に、同世代の人たちとの接触や社会的経験をほとんどしなかったことが、現在にいたるまで、私の人生に少なからぬ影を落としているように思う。そのため、自分の考えを他の人に伝えたり、他者との関係を広げたりといった、社会生活を営む上で最も基礎的で大事な作業があまり得意ではなく、自己分析すると、未だに妙に引っ込み思案だったり、また妙に一人よがりだったりと、アンバランスなところが自分の中に感じられるのである。これらのことは、個人的な資質とも大きな関係があるだろうし、一概に養護学校やその後の家の中での生活だけに原因を求めるわけにはいかないかもしれない。しかしながら、自分自身が辿って来た道を振りかえると、障害を持つ子供の教育や社会との関わり方に、考え直す余地があるような気がしてならない。恐らく、程度の差はあるにしても、Y君も似たようなプロセスを経てきたものと考えられる。
 そうした境遇にあった二人が、「自立生活センターを作る」という経験を通して、自らの社会性の欠如と、社会的な行動を起こすことの意味と困難さを次第にはっきりと自覚する結果となった。自立生活センターに限らず、組織を作るためには、あらゆる機会を捕らえて出来るだけ多くの人たちに自分たちの考え方や手伝って欲しい事柄などを知らせ、仲間や支援者を獲得する必要がある。つまり、自分たちの存在を個人的なものから社会的な存在へと変える必要があるのだが、そのこと自体にもなかなか気付かず、ずいぶん回り道をしてしまったようだ。そのため、自立生活センターを作るという合意は出来たが、その先の具体的な計画やビジョンをつくるということがなかなか出来ず、気持ちだけが空回りしてしまい、実際には何からどんな順序で手をつければいいのかわからない状態が数ヶ月続いていた。
 そんなある日、「アメリカの自立生活運動のリーダーの講演会が地元の県教育会館で開かれる」という情報が手に入った。そのリーダーとは、アメリカの自立生活運動の発祥の地といわれるバークレーの自立生活センターで所長をしている障害者で、当時毎年のように日本にやってきて、各地で講演して歩いては自立生活運動の意義や必要性を説いていた。これはチャンスである。この講演会には、自立生活運動に理解と関心のある人たちが集まってくる。その人たちに、自分たちが自立生活センターを作りたいという気持ちを持っているということを知ってもらい、仲間を募ろう、ということになった。私たちは、簡単なビラを急いで作り、講演会の当日、受け付けに置かせてもらって資料と一緒に配ってもらうことにした。私たちにとっては、初めて自分たちの考えを外部の人に知らせるという意味で、とにもかくにも活動の第一歩となった。「これで仲間が作れるかもしれない」と私たちは期待したが、講演会に参加した障害者などからの反応はなかった。しかしながら、私たちが作ったビラはまったく無駄だったわけではなかった。その日の講演会を取材に来ていた新聞記者が私たちのビラを見て「取材をしたい」と言ってきたのである。Y君はどうか知らないが、この連絡に私は少しためらった。何といっても私たちの活動はまだ「構想」の段階であって、取材されるような「実体」がない、というのがためらいの一因であった。しかし、元々多くの人に知って欲しく作ったビラである。どんな形であれ、私たちの考えを幅広い人たちに知らせることが当面の「仕事」であった。講演会から数日後、私たちはその新聞記者の取材を受けることとなった。取材の席上、私たちは、センター設立を思い立った動機や、これまでの経緯などを話した。地元の支局にいるという若い男性記者は、とても熱心に話を聞いてくれた。そして、2、3日して、次のような見出しで私たちのことを紹介する記事が掲載された。

「障害者自立の環境を。重度の二人、センター設立準備」

 この記事が出ると、連絡先となったY君の自宅には問い合わせや参加の申し出が何件かあり、マスコミの威力を実感することとなった。そして、この記事をきっかけに集まった人たちによって初めての会合を開いたのは、それから一月半ほど過ぎた夏も間近の日曜日のことであった。

4. ディスプレイの上の友人たち

 言うまでもなく、人間の一生は出会いと別れの繰り返しであり、どのような人たちと知り合い、知り合った人たちとどんなふうに関係を作り、それをいかに維持、発展させていくかによって中身が違ってくるが、自立生活センターという組織も人間の集まりである以上、ある程度同じような要素を持っているのは当然であろう。
 前回も書いたように、私たちの自立生活センターは、アメリカの自立生活運動のリーダーの講演会で配った一枚のビラをきっかけとして、一人の若い新聞記者と出会ったことで、足踏み状態から一歩抜け出し、組織化へ向けたうごきを始めることになった。私自身は都合が悪くてその講演会に出席することが出来なかったのだが、その講演会で同じビラがもう一人の心強い支援者の手に渡っていようとは、思いもよらないことであった。
 自立生活センターの設立に向けて動き始めていた頃、私は「パソコン通信」というメディアにかなり熱中していた。パソコンやワープロと電話をつないで情報や意見を交換するというこのメディアは、無機的だと批判する人がある一方で、ディスプレイに現れる文字だけが自己表現の手段であり、それだけに障害の有無や種類にも関係なく、どんな人でも対等な立場でコミュニケーションが出来るということが、少なくとも私には大きな魅力であった。当時、私は某大手ネットに加入し、その中の障害者問題に関心のある人たちの交流の場である「障害者フォーラム」で、いろいろな人たちと意見や情報を交換しては、それまでの自分の生活にはなかった人間関係の広がりを感じていた。そして、単なるディスプレイの上の交流だけではなく、実際に顔を合わせて話をしたり遊びに出かけたりする「オフラインミーティング」と呼ばれる催しにも出席するようになり、次第に「顔見知り」も増えていった。それまで使っていたワープロに限界を感じて初めてパソコンを買った時にも、遠方から駆けつけてセッティングやソフトの組込みなどの一切を引き受けてくれたのが「障害者フォーラム」で知り合った人だった。
 「障害者フォーラム」に限らず、パソコン通信のなかのフォーラムと呼ばれるグループでは、やり取りされる話題や情報の分野ごとに「会議室」が設置され、「差別」、「福祉制度」などの深刻な問題からたわいのない雑談まで、自由で活発な交流が行われている。各々の会議室には「ボード・オペレーター」と呼ばれるリーダー役が置かれ、話題を提供したり、議論を整理したりしている。そして、フォーラム全体を総括する責任者が「システム・オペレーター」(略してsysop)と呼ばれている。当時、「障害者フォーラム」のsysopは、Kさんという人だった。彼は、十代の頃に「若年性糖尿病」と診断され、病と闘いながらも中学校の教師として働き、しかも「障害者フォーラム」のsysopとして活躍するなど、バイタリティーあふれる行動ぶりが魅力的な人物だった。彼と私は、私が初めてオフライン・ミーティングに参加した時に会って以来、何度も顔を合わせ、いろいろな話をしていたし、当時私は、Kさんの委嘱を受けて「障害者フォーラム」の中で福祉制度に関する会議室のオペレーターを務めていた。「障害者フォーラム」には、障害者に関係する各種のイベントなどの情報を交換できる会議室があり、そこに私は、アメリカの障害者のリーダーの講演会が開かれる旨の情報を書き込んだ。そして、その書き込みを読んだKさんが参加してくれていたのである。
 それまで、私は自分たちが自立生活センターを設立しようとしていることをパソコン通信の場で公表したことはなかった。そのため、その講演会で受け取ったビラに私の名前があったことにKさんは驚いたようである。数日後、彼から電子メールが届いた。そのメールの中には、「パソコン通信というメディアの中で、単なる交流に終わるのではなく、障害者の生活の向上を目指すのが『障害者フォーラム』の趣旨であり、自立生活センターを作るにあたっても、積極的にフォーラムを利用してほしい」と書かれてあった。そして、「障害者フォーラム」の中に私たちの自立生活センターの設立の過程を扱う会議室をつくることになった。その会議室の中では、その時々の活動の様子や困っていることなどを私が報告し、いろいろな人から意見を求めたり、場合によっては「自立とは何か」などという本質的な議論に及ぶこともあった。そうこうする間に、そのやり取りを読んだ人の中から直接的な協力を申し出てくれる人もあらわれ、本当に思わぬ広がりを持つ結果となった。Kさん自身も、会議の時には体調や仕事の都合の許す範囲で友人を誘って参加してくれていた。
 こうして、新聞とパソコン通信という、性格の異なるメディアを通して、私たちの自立生活センターの骨格となる人材が集まってきたわけで、改めて考えてみると、少々不思議な気分にもなってくる。
 残念なことに、Kさんは約1年前に病が元で急逝してしまった。告別式にはパソコン通信の仲間たちが全国から多数駆けつけていた。それは、Kさんの人柄をあらわすと同時に、物理的な距離や各自の社会的属性とはあまり関係のない次元で成立するコミュニケーションの性質を示しているように感じられた。
 ・・・と、ここまで書いてきて、私自身、このところ忙しさに紛れてパソコン通信にあまり参加していないことに気がついた。コミュニケーションの手段である以上、他の人が書いたものを読んでいるだけではつまらないし、発展性がない。何とか時間を作って議論に参加しよう。新たな出会いを求めて・・・・・。

5. 恵まれない人々

 いくつかのメディアの力を借りて、私たちの自立生活センターは、その中核となる貴重な人材を集めることが出来た。障害を持つ当事者の参加がそれほど多くないことが心残りではあったが、参加、もしくは協力の申し出があった10人余りの人たちに集まってもらって、とりあえず顔合わせだけはする必要がある、ということで、Y君と私の意見は一致した。5年前の6月のことであった。
 公民館の一室に集まったメンバーは、会社員から教師や主婦に至るまでの、幅広く多彩な顔ぶれで、センターの性格上当然といえば当然なのかもしれないが、ボランティア活動の経験者が約半分を占め、他にも養護学校を卒業して間もないような感じの若い障害者も含まれていて、先行きに期待がもてる陣容であった。
 しかし、今にして思えば、前々回に書いたような理由もあって、この時点で私たち二人の側に、そのようにして参加や協力を希望する人たちの熱意と力を汲み取って、それを十分に生かすだけのビジョンとリーダーシップが不足していて、その結果、随分回り道をしてしまったことが悔やまれる。

 それはともかく、実際に人を集めた以上、サイは投げられたのである。記念すべき第1回の会合では、お互いに自己紹介をして、参加を希望する動機などを語り合った。そして、Y君と私は、自分たちが自立した生活を送るために、自立生活センターという組織が必要だと考えるようになったことを話し、当面、運動の輪を広げる意味で、東京にある先輩格の自立生活センターの設立にかかわった人たちを講師として、学習会を3回のシリーズで開催することを提案した。学習会のテーマは、「自立生活とは何か」、「自立生活センターの運営と実際の活動」などといったもので、全体として自立生活センターの理念と実際の運営方法を、出来るだけ多くの人たちに、知ってもらうということを目的としていた。
 第1回の学習会は9月の第2日曜と決まり、早速準備にとりかかることになった。やる以上、一人でも多くの人に来てもらわなくては意味がない。新たなメンバーの力を借りて、知りうる限りの関係者に学習会を開催するということを伝えるべく、いろいろな手段を尽くして広報活動をつづけた。ビラを作って郵送したり、記者クラブを回って取材を申し入れたりと、それまで長い年月をほとんど家の中だけでのんびりと過ごしてきた私とY君にとっては急に慌ただしくなって、ペースをつかみきれないこともあった。また、もちろん、そうなると、何をするにも費用がかかる。現在でも、運営にかかる費用をいかに捻出するか、ということは私たちの最大の課題の一つとなっているのだが、何度目かの会合の時にそのことが問題となり、まだ規約など何も決まっていない状態ではあったが、取り敢えず集まっているメンバーだけでも暫定的に「会費」を決めて、当面の活動資金に充てることになつた。
 広報活動の中心は、やはりマスメディアであった。初めに私たちのことを取り上げて、すべてのきっかけを作ってくれた若い新聞記者も引き続き関心を持って、学習会の準備段階から取材を続けてくれていたし、他のいくつかの新聞社も取材をしてくれた。
 そんなこともあって、私たちが自立生活センターを作ろうとしているということが、いろいろな人たちに知られるようになつた。もちろん、それはマスメディアの役割であり、私たちもその力に期待して取材を要請しているわけである。ただ、その報道の仕方というのは千差万別であり、時として、私たちにとっては自らの意図したものとまったく正反対の形となることも少なくない。
 ある時、私の知人で、趣味で絵を描いている人から「個展を開くので、収益の一部を自立生活センターに寄付したい」という話が舞い込んできた。その人の描く絵は、題材のめずらしさもあって、各マスコミにも時々取り上げられていた。その個展のこともいくつかのメディアで報道された。その中の一つが、「民放」ではない唯一の放送局であるはずの某局であった。この局は、昼間の関東地方のローカルのテレビ番組の中で、その展覧会のことを取り上げ、最後の部分でアナウンサーが、「この展覧会の収益の一部は『恵まれない人々』に寄付されることになっています」、というコメントをつけて放送された。
 この放送を見ていて、私はこの最後のひとことが非常に気になった。「恵まれない人々」という言い方は、歳末助け合いや各種のチャリティー・イベントを実施するときに、一種の慣用句的に使われてきた。でも、よく考えてみると、「恵まれない人々」というのは、存在自体が「不幸」だということになり、仮に障害者を対象としてこの言葉を使った場合に、「障害者イコール不幸」という図式が受け手のイメージの中に、出来上がってしまう危険性を感じるのである。障害を持つことによって、毎日の生活に不便を感じたり、この世の不条理を嘆くことはあるかもしれない。しかしながら、だからといって、その人の人生そのものが「不幸」だとか「恵まれない」などと、他の人から決めつけられるのはあまりいい気分ではない。第一、人間の価値観は多様であり、障害の有無がすぐさま幸福か不幸かといった価値判断に結びつくとは限らない。特に、自立生活センターという組織は、障害があっても人間として、自分の人生を少しでも意義のあるものにしようという趣旨で運営されている以上、そこにかかわる人たちを「恵まれない」という言葉で表現されることは、センター自体の存在意義にも絡む問題である。
 そう考えるといても立ってもいられず、私は電動車いすに乗ってその放送局の支局へ向かった。ロビーで10分近く待たされた後、「問題の番組」を担当したチーフ・アナウンサーが応対に現れた。私は、これまで書いたような考え方をしゃべり、「恵まれない人々」というようなステレオタイプの印象を与える表現をやめるように申し入れた。アナウンサー氏の答えは、「その言葉は必ずしも『不幸』というイメージで使っているわけではない。境遇としては、体が自由に動く人に比べて『恵まれない』ということだ」というもので、私との話は最後まで噛み合わないままだった。
 障害者にかぎらず、力の弱い者が自分たちの存在や主張を世の中に伝えようとする時、マスメディアの力を借りることは欠かせないことである。しかし、それにはある程度メディアと「いい関係」を保つことが必要である。一人一人のジャーナリストを本当の意味で、自分たちの「味方」に引き込む力を持つことが、求められているように思う。
 展覧会を通じた寄付の話は、いつの間にか闇へと消えた。

6. 産みの苦しみ

 約半年の間に3回にわたって開催した「自立生活を考える学習会」は、当初予想していた以上に大きな反響があり、改めてマスメディアの影響力の強さを感じさせる結果となった。以前にも書いたが、この学習会は3回のシリーズを通して自立生活運動の基本的な考え方やその背景、そして、実際に自立生活センターを運営する上でのノウハウに至るまで、一通りの項目が含まれていた。また、準備の段階では、講師依頼の挨拶も兼ねて、東京の先輩の自立生活センターを訪ね歩いたこともあった。お願いした3人の講師の人たちも、私たちの本来の意図を踏まえて、それぞれとても具体的でわかりやすい話をしてくれた。もともと、周囲の人たちに理解を深めてもらって、運動に加わってもらうことを目的にして始めた学習会ではあったが、準備段階も含めた一連の出来事を通して自分たち自身も学ぶことが非常に多く、改めて自らの知識不足や経験不足を痛感する形となって、その点でも有意義な催しとなった。
 この3回の学習会は、厳密には「自立生活センターをつくる準備会」の主催という形式になっていた。つまり、この時点では正式には自立生活センターとして発足していなかったわけである。学習会の終了後は組織としてのスタートをどんな形で切るかということが最大の懸案となった。ここでも、私とY君がきちんとした組織論や見通しを示すことがなかなかできずに議論が空回りしてしまうことも少なくなかった。
 結局、初めての総会を開いて正式に自立生活センターとして旗揚げを宣言したのは、学習会が終わってから7ヶ月後のことになった。総会に参加したのは約30名。型通りに規約や事業計画、それに予算などを採択していった。そして、運営委員と呼ばれる役員も選出されて、曖昧だった責任体制なども一応明確になった。
 しかし、正式に発足したとはいっても、どんな活動をどう具体化していくのか、また、活動の拠点となる事務所もなく、どうやってその事務所を確保し、それを維持していくのかという点についてもはっきりした見通しもないという状態で、本当の意味では発足したとは言い難いのが実態であった。地元の自治体に対しても、事務所として使えるスペースの提供や活動費の助成を求めて要望書を提出したりしたが、それまでの実績がまったくない組織に簡単に場所やお金を差し出してくれるほど世の中は甘くはなかった。
 そうはいっても、このままでは事態はいつまでたっても変わらない。ただ何もしないで時間ばかりが過ぎていくという状況から取りあえず一歩踏み出すという意味で、市内の公共施設を会場にして、「自立生活プログラム」という事業を始めることになった。これは、自立を目指す障害者が、買い物や交通機関の利用の方法から家族との関係に至るまで、自立生活に必要な扱術や知識をいろいろな社会的な経験や他の障害者とのやりとりを通して学び、自信を深めて、意欲を高めるということを目的としたプログラムで、これから自立を目指す私たちにはいちばんふさわしく、しかもさしあたり事務所がなくても実施が可能という点で、当時の私たちには二重のメリットがあった。毎回のテーマに応じて、ある時には近隣の先輩の自立生活センターにリーダーの派遣を要請したり、またある時には自分たちで経験を話し合ったりという形で、週に一回、10週におよぶプログラムとなった。プログラムの中身はもとより、毎週同じ曜日に顔を合わせることでお互いのコミュニケーションが図られる機会となって、センターの方向性などについて議論することもあった。それ以後、この習慣を生かす意味もあって、毎週火曜日をセンターとしての行動日と定めて、さまざまな行動や打ち合わせなどに充てるようになった。駅の近くの公共施設のなかに喫茶店があり、毎週その店に集合しては、駅前にビラを撒きに出かけたり、事務所を探しに不動産業者を回ったりという具合で、言い換えればその喫茶店を事務所の代わりに使っていたようなもので、この習慣は「本物の」事務所ができるまで続いた。
 このプログラムと並行して、先に述べた「自立生活を考える学習会」の報告書を作るプロジェクトが進んでいた。3回にわたる学習会の録音テープを基にして、講師による講演の内容やその後の質疑応答の模様などを冊子にまとめて発行し、センターの宣伝と当面の活動に必要な資金の獲得に役立てようというわけである。そのために、テープを起こす作業から編集やレイアウトまですべての作業を自分たちで手掛けることになった。特にテープ起こしは気の遠くなるような作業だったが、運営委員のS氏が忙しい仕事の合間を縫うようにして引き受けてくださった。印刷は私たちの古くからの知人で、この運動の良き理解者であり、支援者でいてくださるE氏の経営する印刷屋さんにお願いした。
 『たびだち』と名付けられたこの冊子が完成したのは、センターとして正式に発足してから半年後、学習会が終わってからは1年数ヶ月もたってからのことであった。『たびだち』ができあがってから、私たちはがむしゃらになってそれを売り歩いた。とにかく、少しでも多く売って活動資金を獲得しなければならない。そのために、あらゆる知人を訪ねては1冊でも多く買ってもらうように依頼して回った。また、関係する団体のイベントなどで売ってもらうこともあった。
 その甲斐あってか、なんとか小さな事務所を持つのに必要な程度の金額が集まった。私たちはいちだんと熱を入れて市内の不動産業者を回って歩いた。ところが、私たちの「駅からはそれほど速くなくて、車いすで出入りできること」という最低限の条件を満たす物件はなかなか見つからなかった。そして、それ以前のさらに深刻な問題として立ちはだかったのは、私たちが自由に出入りできる不動産業者自体が非常に少ないという現実であった。この場合、自由に出入りしにくいというのは二つの意味があって、一つは、不動産業者の建物の入口などに階段などの物理的な障壁があって出入りしにくいケースと、仮に入口は通れても不動産業者が私たちの話さえも聞こうとしないで門前払いにされるようなケースの両方である。中でも後者のケースが意外に多いのには驚かされた。ただ、こうした問題は不動産業者にかぎったことではなく、この国のごく普通の人たちの障害者に対する理解のし方を象徴しているように思う。つまり、総論的には誰しも一定の理解があるようにみえるものの、直接自分の利害にかかわる問題になると、途端に拒否反応が出てしまう人も多いということではないだろうか。私たちの事務所探しの過程でも、条件に合う部屋が不動産業者から紹介されながらも、契約寸前になって大家さんのストップがかかって話がご破産になったこともあった。
 こうして考えてみると、一つの組織を作ろうと思い立ってから、人を集め、組織体として形を整えるという、言わば「産みの苦しみ」の期間が非常に長かった。もちろん事務所を持つという作業もこの中に含まれるわけだが、その過程で出会った一人の不動産業者の熱意が私たちの夢を現実に大きく近づけることになった。

7. 夢に一歩近づいた日

 公共施設のロビーの一角にある喫茶店を週に一度の「仮事務所」として使うという状態は、4ヶ月近くにわたって続いた。
 この喫茶店には、6〜7人が一度にお茶を飲める程度の大きな楕円形のテーブルがあり、高さもたまたま車いすでも使いやすいものだったので、毎週同じ曜日の、ほぼ同じ時間帯に、数台の車いすを含めて、多い時には10人近い一団が勝手にそのテーブルを「占拠」するという形になってしまった。そして軽い昼食をとりながら打合せをして、午後の行動に繰り出すというのが決まったパターンであった。
 また、場合によっては書類やハサミ、糊などを持ち込んで、発送する文書の宛名書きやビラの作成といった簡単な事務作業をすることもあった。
 特に店の人に了解を求めたこともなかったし、店の側からクレームがつくこともなかったが、そのテーブルに先客がいて、しばらく待たされたりすることはあった。
 また、当時、対外的にはY君の自宅が「仮事務局」として外部からの連絡先となっていた。
 いずれにしても、どんなに入りやすい喫茶店があり、そこにお誂え向きのテーブルが備えつけられてあったにしても、そこで出来る活動などはごく限られたものでしかなく、自前の事務所を持つことが最優先課題であることに変わりはなかった。組織の内部には、活動の実績がないことや、家賃を払いながら事務所を維持していくことへの主に財政的な不安を背景として、この段階で事務所を持つことへの慎重論もあったが、多くの人に参加してもらって、活動を拡大させていくという意味で、喫茶店や個人の自宅をいつまでも事務所代わりにしているわけにも行かず、やはり事務所を持つべきだということになった。
 この辺は、「ニワトリが先か卵が先か」という議論に似ている。
 確かに、現在でも「財政的な不安」は常につきまとっているが、もし事務所がなかったら、センターとして今のような活動はできなかっただろうし、したがって、私自身もいまだに自立生活が実現できずにいたかもしれない。
 それはともかくとして、前回にも書いたように、この「事務所を探す」という作業は予想した以上に困難な作業で、ここでも私たちは現実の社会の厳しさと直接向き合う結果となった。この間に回った不動産業者は30件近くにのぼる。
 しかしながら、まともに私たちの話を聞いてくれたところはその内の半分にも達せず、実際に候補となる物件を紹介してくれたのは、ほんの数社に過ぎないという有り様であった。
 中には、不動産業者の店頭で条件に合いそうな物件の載った貼り紙を見つけて尋ねてみると、「あ、それ、もう決まったから・・・」とあっさりと断られたものの、それから数週間経ってもその貼り紙は貼られたままで、該当する物件の前にも「テナント募集」の看板がかかったままだったというケースもあった。恐らく、私たちの外見だけで、あからさまな拒否反応を見せた典型的な例と言っていいだろう。さらに、紹介された数少ない物件の中でも、立地条件や建物の構造、それに家賃などの点でハードルが多くて、決め手に欠ける状態が続いていた。何しろ、車いすで利用するということから、出入り口の段差の有無や扉の幅の広さなど、障害のない人間が使う場合にはほとんど気にもとめないような事柄が、私たちにとっては最も優先すべきチェックポイントとなった。あらかじめそれを想定した公共の建築物であればいざ知らず、民間の一般向けの賃貸物件の中からこちらの条件に合ったものを探すというのは至難の業であった。たいていの物件は段差があったり、出入り口が狭かったりということで候補から外れていった。まれに、ゆったりとしていて車いすでも使いやすそうな部屋を紹介されることもあったが、そうしたものは、部屋代が目玉の飛び出るほど高かったり、交通の便が極端に悪いものが多かった。
 そんな状況の中で、私たちは自分たちで回れる範囲の業者をほぼ回りつくし、新たな情報を求めてT氏の経営する会社を再度訪ねてみることにした。
 この会社には、事務所を探し始めた初期の段階で訪れており、T氏の親身な応対ぶりが印象に残っていた。とにかく、話を聞いてくれたり、物件を紹介してくれた業者は他にもあったが、自らメジャーを取り出してきて車いすの寸法を計ったり、候補となる物件のドアの幅を調べてくれたのはT氏だけだった。
 この時の訪問をきっかけとして紹介されたのが、現在事務所として使っている場所であった。
 2階の部分がアパートになっている古びた木造の、お世辞にもきれいとは言いがたい建物だった。
 実は、その物件は、それ以前に別の不動産業者から紹介されて見に行ったことがある「いわく付き」のものだった。といっても、その時は部屋の中に入ったわけではなく、ただ場所を確かめただけで、外側からの目測で、入り口の扉の幅が狭くて車いすでは出入りが無理という判断をしてしまい、そこで話が止まった状態になっていたのである。ところが、T氏が実際に測ってみたところ、ギリギリではあるものの、何とか車いすでも出入りができるという結論になった。
 私たちも改めて出かけて行って、中に入ってみることにした。
 T氏の言うとおり、余裕はないものの出入りは出来そうだった。
 部屋の内部をみると、トイレがないことが最大の問題となるように思われたが、それ以外の面では事務所として使う分には最低限の条件は備えているように思えた。
 立地条件の点から見ても、駅からもそれほど遠くなく、市役所からも電動車いすで数分の距離にあるなど、悪くはなかった。加えて、部屋代がそれほど高くないことも私たちには好材料だった。
 結局、当面はトイレだけ市役所や図書館など、付近の公共施設のものを利用するという窮余の策を講じることを前提として、その部屋を事務所として借りることを決めた。
 併せて、入り口やトイレなど、不都合な部分は改造工事をしてもよい、ということで、大家さんとの合意もできた。
 長い道のりの末ではあったが、一人の不動産業者との出会いが、私たちの「夢」をまた一歩現実に近づけることになった。
 しかし、自分自身の自立生活という本来の夢の実現にはさらに長い道のりが必要であった。

8. 綱渡り

 先月号の本誌の特集は「自立生活の現状」というものであった。その中では、既に自立生活を実践している人や、或いはこれから自分なりのスタイルで自立を目指そうとする人など、さまざまな立場の人たちがそれぞれに「自立」への思いをストレートに語っていて、とても興味深いものがあった。
 特に強く感じたことは、一口に「自立生活」といっても、その中身や意味するところは一人一人微妙に異なっており、したがって、それにいたるプロセスもきわめて多様だということである。
 「生活の多様化」という波が、遅れ馳せながら障害者の間にも押し寄せてきた、ということかもしれない。
 ただ、現在の社会的な環境や制度上の問題などを考え合わせると、自分の思い描いたイメージ通りの生活を実現できている障害者は、それほど多くはないのではないだろうか。
 特に、重度の障害を持つ者が自分の生活のイメージや理想に少しでも近づこうとする場合、超えなくてはならないハードルが、障害のない人に比べて多いことは確かなようだ。
 前回にも書いたように、私たちの自立生活センターは、今から約3年前に、やっとの思いで待望の事務所を持つことが出来た。
 大家さんと契約書を交わし、電話も取り付けた。
 だいぶ以前に寄付を受けていながら、事務所がないために十分には活用できないでいたパソコンセットやコピー機を運び込んだ。
 何しろ、財政的に余裕がないので、事務用の机や椅子、それに扇風機など、必要な道具の大半は知り合いの人から寄付されたり、各自で持ち寄ったものでまかなった。こうして、曲がりなりにも活動の拠点となるスペースを確保できたわけである。
 ところが、これも繰り返しになるが、その事務所たるや、少なくても車いすの障害者が使う事務所としては、不完全といわざるを得ないシロモノだった。入り口は狭くて出入りに苦労して、私も扉に車いすをぶつけてガラスを割ってしまったほどだし、トイレは、事務所とは別になったアパート側の入り口から2、3段の階段を上がった薄暗い廊下の突き当たりにあるだけという状態であった。
 いくら近くの公共施設のトイレが使えるとはいっても、用を足すたびに何分もかけて出かけるのではエネルギーの無駄で仕事にも差し障りが出る。
 また、雨や雪の日はどうするのか、といったような心配もある。何だか、障害のない人にとっては、笑い話のようにも受け取れるエピソードだが、当事者にとっては重大な問題である。
 とはいっても、こうした問題はいずれもあらかじめ予想されたことであり、私たちもそれを承知の上でこの部屋を事務所として「借りる」ということを決めたわけで、とにかく、少しでも使いやすい形に変えていかなくてはならない。
 知り合いの人に大工さんを紹介してもらい、早速改造工事の相談が始まった。その結果、既存のトイレとそれに続く廊下をつぶして、新たなトイレを設置して、併せて出入り口もドアから引き戸に変えるということで話がまとまった。
 そのための費用については、私たちが前に所属していた地元の障害者団体から一時的に借用するという形で捻出することになった。
 あまりいいことでない事は分かっていたが、それ以外の名案も浮かばず、苦しい決断が続いた。
 以前に「産みの苦しみ」という言葉を使ったことがあるが、この苦しみはいつまで続くのか、というのがこの頃の偽らざる気持ちであった。
 このように「綱渡り」的な状況が続く背景には、私たちの力量の不足に第一次的な原因があることは言うまでもないが、近隣の都県の自立生活センターの様子を見るにつけても、障害者や自立生活センター自体に対するいろいろな制度に関する地域格差を感じてしまう。
 工事には一月半ほどかかるということで、本当の意味での活動の開始はそれ以降ということになり、工事期間中は開店休業の状態になった。
 せっかく運び込んだパソコンやコピーの機械にも厳重にシートがかぶせられて、働く場を失っていた。
 私たちは、交代で現場を見に行ったりしていたが、それと並行して、工事終了後に開く予定のイベントの準備にもかかっていた。
 工事は無事に終わり、入り口は広くなりトイレも使えるようになった。
 廊下をつぶした分だけ室内の空間もいくらか広がった。
 欲を言えばきりがないが、この工事で事務所としての最低限の必要条件は整ったといっていい。あとは「中身」の問題である。
 何といっても、組織として正式に発足してから1年も経っていながら、事務所を持ち、そして、それをどうにか使えるように環境を整えるということに精力を取られてしまい、いわば「入り口」の段階にとどまっていて、自立生活センターとしての本来の仕事がほとんど手付かずになってしまっているので、改装工事が終わって事務所としての機能が十分に発揮できるようになったあかつきには、今度こそ本当に本来の目的に向かって集中できるような体制を作らなくてはならない。
 そして、そのためには、さらに多くの人に私たちのセンターの存在を知ってもらい、これからやろうとしていることを理解してもらう必要がある。
 というわけで、事務所の披露を兼ねてささやかなイベントを開くことになったのである。
 公民館の講堂を借りて行ったこの「事務所開設の集い」と銘打ったイベントは、二部構成で、第一部が障害者福祉専攻のM教授による講演会、第二部がパーティーという構成になっていた。
 このイベントでは、参加者はもとより、学生を中心とする若い人たちが積極的に手伝ってくれたことが、殊のほか嬉しかった。
 この中の何人かは、今でもいろいろな形でセンターの活動や私自身の生活を支えてくれていることを考えると、それだけでもこのイベントを実行した意義があったのではないかという気がする。
 何はともあれ、このイベントを節目にして名実共に「入り口」の段階を終えて次のステップヘ向けて踏み出すことになった。「次のステップ」とは言うまでもなく私たち自身の自立生活であり、このイベントの中でもそのことが強調された。
 そのためには、センターも一刻も早く「綱渡り」の状況を脱しなくてはならないのだが、安定して活動基盤を作るというのは、言うはやすく行うは難しである。
 実際、私自身の自立生活がスタートしたのは、このイベントからさらに1年半近い歳月が流れた後だった。

9. 車いすのうさぎ

 この拙文を書いている日は、奇しくも私が現在住んでいる小さなアパートに引っ越してからちょうど1年半目にあたる。
 思い起こしてみると、いろいろなことがあったような気もするし、特別なことは何もなかったような気もする。それだけに、「まだ1年半か」という気持ちと「もう1年半か」という思いが交錯する複雑な気分の中で今日という日を迎えた、というのが偽らざる心境である。ただ、新しい環境に慣れるのに時間がかかり過ぎてしまい、自分のペースで生活をつくるというよりは、周囲の動きに左右されていたという反省はある。そのために、結果的にその日一日を過ごすだけで精いっぱいというような毎日になってしまっていた。これも、長い間家族や周りの人たちに依存した暮らしを続けてきたツケともいえるわけだが、そうだとすれば、この間の「自立生活」というのは、ただアパートを借り、そばにいる人が家族から介助者に代わっただけの形式的な、名ばかりのものに過ぎないということになる。何度目の正直になるか知らないが、この機会に自分にとっての自立の意味を考え直してみたいと思っている。結局それは、自分という人間の存在する意味を問い直すということであり、そこから現在の生活のあり方全体を見直すということである。惰性や妥協の繰り返しからいかにして抜け出すかということが現在の私にとって最大の課題である。
 妥協といえば、現在生活の場としているアパートも、まさに、「妥協の産物」として選ばれたものであった。
 このごろ、「バリアフリー」という言葉をよく耳にする。言うまでもなく、建築物や乗り物を障害者にも高齢者にも使いやすいものとなるように障壁となるような構造を改善する動きである。電動車いすで町を走っていて強く感じるのは、確かに役所や公民館などといった公共の建物ではある程度のバリアフリー化が進んでいるようだが、同じように不特定多数の人が出入りする建物の中でも、中小の商店などでは自由に入れるところは少なく、全体として民間ではその流れが大きく遅れているということである。さらに、アパートやマンションなどの居住用の建物になると、まったくといっていいほどに何の対策も図られていないものがほとんどのようである。
 以前にも事務所探しの顛末を述べたが、事務所であれ、居住用であれ、私のような車いすの障害者が部屋を探す場合、一番重要なチェックポイントとなるのは、車いすで出入りが出来るかどうか、という点である。逆に言えば、その条件さえ満たしていれば、他の多少の不都合には目をつぶるくらいの覚悟を決めないことには、選択の余地が著しく狭まってしまうというのが実状であろう。
 昼食を買いに出た折りに、私は、ふとした偶然から車いすでも何とか出入りが出来そうなアパートを見つけた。場所は事務所から電動車いすで約2分。立地条件は悪くない。私は、急いで事務所へ戻り、そのアパートの管理を担当しているC不動産に問い合わせをしてみることにした。
 ただし、初めからこちらが車いすの障害者であることを明かしてしまうと、それだけで大方の不動産業者がある種の「警戒心」を抱いてしまうことはそれまでの経験でわかっていたので、姑息なやり方ではあったが、事務所で働いている健常者の女性に電話をかけてもらった。そして、「少し足が不自由なので、出来れば2階ではなく1階に入居したい」という言い方で空き部屋のあることを確認した。その上で、間取りなどの詳しい情報をファックスで送ってもらうことにした。間もなくファックスで届いた資料には、6畳相当のワンルームの構造であることなどが書かれていた。
 しかし、当然のことながら、私にとっては最も重要なチェックポイントである室内の段差の数や高さなどについては一切記載されてはいない。
 やはり部屋の内部の様子を直接見て確かめなくてはならない。
 私は、ファックスで送られてきた資料を手に、事務所を探すときに尽力してくれた不動産業者のT氏を訪ねた。
 T氏は、快く私の願いを聞きいれて、C不動産に連絡をして、部屋の中を見せてもらうための手続きをとってくれた。数日して、T氏から、問題のアパートの部屋の鍵が手に入った、との連絡があった。
 いよいよ「運命の扉」が開かれるのである。私は期待と不安が入り交じった何ともいえない気持ちでドアが開くのを待った。そしてドアが開いた瞬間、私の気持ちは驚きと希望へと変わっていった。
 なぜなら、ドアの外から玄関の内部への段差だけでなく、そこからさらに室内への段差も共にわずか数センチと異例なほど低く、しかも内部の空間も広いので、特に大きな改造工事をしなくても電動車いすで比較的自由に出入りが出来る構造であることは一見しただけで明白だったからだ。
 重度の障害を持つ者が自立生活を志す場合、住居を確保することは最大の難関の一つである。私自身もそれまで長い間探し続けて実感していた。
 少なくとも、いわゆる「障害者住宅」など、予め特別に配慮された建物を除けば、車いすでの出入りの容易さという点ではこのアパートは屈指の存在といえるだろう。
 ただ、内部を細かく見ていくうちに、もう一つの大きな問題が浮かび上がってきた。トイレと風呂の問題である。
 こればかりはご多分に漏れず一体型で極端に狭い構造で、部屋全体の作りを変えてしまうような改造をしないかぎり、私が使うことは不可能である。また、こうした問題以外にも、日当たりや風通しが極端に悪いとか、収納のスペースがまったくないなど、重大な問題も少なくはない。
 しかしながら、だからといって、車いすで出入りするという大前提は変えられないわけで、それを含めてトータルとして考えると、これ以上に条件の揃ったアパートを見つけることは至難の業であるように思われた。
 結局、当面トイレは事務所のトイレやポータブルトイレを使い、風呂は週末に実家に帰ったときに入るという形で自分を納得させざるをえなかった。
 私は、T氏を通じてC不動産に対して入居の申し込みをすることにした。もちろん、百パーセント満足してのことではない。
 日本の平均的な住環境を揶揄して「うさぎ小屋」という表現が使われたのは、もうだいぶ前のことである。その後この国の住宅事情は多少なりとも改善されたのであろうか。
 障害者に限って言えば、答えはノーのようである。狭いというだけでなく、構造的にも不自由な環境におかれているケースが多い。そして、そのことも本当の意味で自分らしいライフスタイルを確立する上で大きな妨げになっている気がしてならない。

10. アパート暮らしへ

 随分と長い時間を要してしまったが、とにもかくにも私は何とか生活の場としての条件をクリアしたアパートを見つけることが出来た。
 事務所捜しを通じて懇意となった不動産業者のT氏の仲介によって、心配していた契約も意外なほどにすんなりと終わった。
 契約書を見ると、このアパートの家主は、私がそれまで住んでいたC市を本拠地とする「K建設」という建築会社であった。
 そして、その書類の中には、通常の「賃貸契約」に関する項目のほかに付帯条項として、原状復帰が可能な範囲内でという条件付きながら、車いすで生活しやすいように室内及び周囲の改造を家主が認める旨が書かれていた。
 これは、事務所を借りるときに交わした契約書の中の付帯条項を基本的に踏襲したものであった。
 いくら車いすで出入りがしやすい構造とはいっても、本来、車いすで住むことを前提として建てられたものではないだけに、風呂やトイレなどの大幅な改造はあきらめるにしても、細かい部分で手直しが必要なところがいくつかあり、それを入居者の自己責任で改善しようとするもの。障害者が一般向けの賃貸住宅に入居する場合に一番問題になる事柄の一つである。
 事前にT氏との話で、この条項を入れることは知っていたが、そのことも含めて、これほどスムーズに契約までこぎつけられるとは思ってもいなかったので、無事に契約を交わしたときには、ホッとするのと同時に、何となくキツネにつままれたような気分でもあった。
 何はともあれ、契約が済んだということは、私にとっては大きな一歩であり、3月1日から入居が可能ということで、その日に向けて準備を始めることにした。何しろ、一人暮らしというのは初めての経験であり、何から手をつけてよいものやら戸惑うこともあったが、まず、やはり住まいの環境を整備しなくてはならない。
 私は、建築家のF氏に相談の電話を入れることからその作業を始めることにした。F氏は、障害者や高齢者にとっての快適な住環境を追求している建築家の一人で、私自身、それまでにもめぼしい物件の情報が入ると一緒に見に行っていただくなど、何かと相談に乗っていただいていた。
 現在のアパートにも早速駆けつけてくださり、私の話を聞きながら、ポイントを具体的にチェックしていった。
 そして、その結果、入り口のドアが押さえていないとすぐに閉まってしまって、車いすで出入りするのに不便なことや、室内の壁などに車いすがぶつかって傷をつけてしまう恐れがあることなどを指摘され、知り合いの大工さんを紹介してくださったうえに、それらの問題点を解決する方法を直接指示してくださった。
 ところが、この「改造」をめぐっては、思わぬ落とし穴が待ち受けていた。F氏から紹介された大工さんとの打ち合わせも大方済んで、実際に工事が始まろうとする矢先になって、家主から待ったをかけられてしまったのである。どうやら、工事そのものを認めないというわけではないらしい。
 ただし、建築会社という立場上、自分たちが工事を請け負いたいということのようだった。
 結局、当初の見積もりと同金額の範囲内で同じ内容の工事をするという条件で家主の側が工事を担当することになった。
 突然の施工業者の交代は、私にとっては二重の意味でマイナスとなった。
 一つは、引越しの予定日が目前に迫った時点での変更であったために、結果的に改装が入居に間に合わず、ある程度荷物も入って生活を始めてしまってから工事をする形になってしまったこと。
 二つ目はさらに深刻な問題として、工事の中身がF氏の書いた当初の図面の内容とは「似て非なるもの」になってしまったということである。
 これはもっと厳重にチェックして、当初の計画通りの内容にしてもらうべきだったとは思うが、住み始めてからの工事ということもあって、そこまで徹底できなかった。
 でも、請求書だけは当初の金額のままで来たわけで、結局私が損をして一件落着? となった。
 いずれにしても私の自立生活は、このように落着かない状態の中でスタートを切った。
 引越しの当日は、自立生活センターのメンバーや他の団体の関係者など数人が駆けつけてくれた。
 あまり大掛かりな荷物と言えるほどのものはなかった。
 予め買い求めたわずかばかりの道具や、実家から運び込むものはこの日に届くように手配してあった。
 とりあえず寝られる状態にしなくてはいけないので、大まかな配置を決めて、ベッドなどを置くと、少しは部屋らしくなった。一段落してから、引越しを手伝ってくれた人たちと買い物に出た。当座の食料や細かい日用品を買って帰ると夕方に近くなっていた。
 私は、原則として毎晩介助者に泊まってもらうという生活設計を持っていた。車いすに座っている間は比較的自由に自分のカで行動が出来るのだが、ひとたび車いすから離れるとほとんど行動の自由を失ってしまい、無防備な状態になってしまうため、災害などの時の対策としてそうした形にしたのである。
 記念すべさ第1日目の介助者はK君であった。彼は、当時福祉系の大学の3年生であった。本来宿泊の介助者は原則として、夜の9時から翌朝の8時までというのが私たちの自立生活センターの規則になっているのだが、この日は初日で、荷物の整理などもあるだろうというわけで、少し早目に来てもらっていた。
 ところが、昼間引越しを手伝ってくれた人たちがきちんと片づけてくれたのと、正直言って整理するほど荷物が無いことが幸い? して、意外に早く片がついてしまい、K君と私はのんびりとお菓子を食べながら小さいテレビを見ていた。
 その時、ドアをノックする音がした。日曜日のよる8時過ぎという時間帯である。しかも、この日に引越してきたばかりで、誰が訪ねてきたというのだろうか。私がドアを開けると、そこに立っていたのは中年の女性で、NHKの受信料の集金人だということであった。灯かりがついていたので、住み始めたのであれば早速受信料の契約をしてもらおうと思ってやってきたのだという。
 結局、車いすに乗っている私を見て、一方的に「減免の手続きをしておきます」というようなことを言って帰っていったが、それにしても、引っ越してきてその日の夜に現れるとは仕事熱心というか、何だかすべてを監視されているような気分になった。それと同時に、大袈裟に言えば、予期しないいろいろなことが起こりうる、これからの生活を暗示しているようにも思えるのであった。

11. 世帯主

 テレビの受信料の集金人という「予期せぬ訪問者」があったことを除けば、小さなアパートの一室を舞台とする私の自立生活の第1日は、何とか無事に過ぎていった。
 今日からはこの部屋が私の生活の場である。この部屋の中で起こるすべての出来事に対して私が責任を持たなければならない。考えてみれば、長い年月を家族にべったり依存した生活を続けてきた私にとって、それはまったく初めての経験であった。と言っても、まったく知らない場所であればそれなりの感慨や緊張感もあるのかも知れないが、毎日通い慣れた自立生活センターの事務所と同じブロックにあることも手伝って、そうした特別な思いは何も無かった。
 それよりも、生まれつきの計画性の無さから、十分な準備もしないうちにバタバタと慌ただしく引越しを「決行」してしまったために、生活に必要な環境が整っていないことへの対策で頭がいっぱいだった。差し当たり、住民票だけは引越しの3日前に移してあった。書類上は一足先にC市からF市へ転入していたことになるのだが、障害者として各種の行政サービスを受けようとすれば、それだけでは事足りずに、各サービスの項目ごとに細かい手続きが不可欠となった。
 初日に泊まりの介助をしてもらったK君には、朝晩の身支度や食事の用意、それに車いすとベッドの間の移動などを手伝ってもらった。彼は、センター設立の初期からいろいろな形で協力してくれている有力メンバーの一人で、私が自立生活を始める3ヵ月前にセンターの主催で実施したオーストラリア・ツアーにも参加して、1週間以上も行動を共にしてお互いに気心が知れていたので助かっていた。
 私にとっても初めての部屋であり、もしまったく初めての介助者だったら、これほどスムーズにはいかなかったかもしれない。
 彼には、そのまま翌日の役所回りなどの細かい手続きなどに同行してもらう約束になっていた。
 軽い朝食を済ませると、私たちは早速市役所の障害福祉課へと向かった。
 自立生活センターのメンバーとして、障害福祉課の職員とは既に顔見知りになっており、その点では幾分気が楽であった。
 窓口に顔を出すと、日ごろから私たちの自立生活センターに対して、行政の担当者としては精一杯と思えるほどの支援をしてくれている障害福祉課の女性の課長が声をかけてくれた。
 私が正式にF市の住民になったことを告げて挨拶をすると、「いよいよですか。よく踏み切りましたね」と言われた。
 私自身はそれほどの気負いも興奮も感じてはいないだけに、この課長に限らず、そういう言い方をされると、逆に戸惑ってしまう。
 周りが大袈裟に受け止め過ぎるのか、それとも私が自覚が足りないのか、自分ではよく分からない。
 一通りの挨拶を済ませると、実務的な手続きに移った。この作業が予想以上に時間がかかるものとなった。
 F市で実施している障害者関係の施策をまとめた「福祉のしおり」という小冊子をもとにして、そのページの順に10人くらいの若い職員が入れ代わり立ち代わりに私の前に座って、自分の担当する施策の内容とそのサービスの受け方などについて説明するのである。
 ほとんどすべてのページに書かれている内容について、懇切丁寧な説明を受けたが、どういうわけか、「障害者の結婚相談」のページはさりげなく説明を省略されてしまった。若い女性の職員からみれば、私には縁のない世界に見えたのかもしれない。
 それはともかく、説明を受けた中で、私が利用したいと希望するサービスについては、その都度申請書に記入していくといった具合で、「ホームヘルパーの派遣」、「福祉タクシーの利用」、「特別障害者手当ての受給の継続」など、当面必要な手続きを終えるだけで午前中一杯かかってしまった。
 それでも、前の居住地の役所の証明が必要だったり、担当者が後から住宅の状況や生活の状態などを見て細かく記入していくものなども残っており、すべての手続きが済んだわけではなかった。障害者手帳の住所の書き換え程度で済むと思っていた私が甘かったのである。
 この一連の手続きやその後のいくつかの経験を通して、この国の社会の仕組みがまだまだ「個人」よりは「世帯」を一つの単位として動いているということを感じた。以前ほどではないのかもしれないが、書類の中に「世帯主」という言葉が出てくることがある。
 私も、今回の転居によって、書類上は生まれて初めて「世帯主」ということになった。
 元々、日本という国は家父長制を中心とする家族制度を前提として動いてきた傾向がある。そして、そのことが、障害者に対しても、出来る限り親や兄弟が面倒を見るべきだという風潮を暗黙のうちに作りだしてしまい、行政もそれに乗じて、結果として多くの障害者を半人前として扱い、「自立」を妨げてきたのではないだろうか。
 近頃は核家族化が進み、好むと好まざるとに関わらず、家族が面倒を見るということが現実的に不可能な場合も少なくない。
 障害者も含めて、特に若い世代を中心に個人主義的な考え方を持つ人が増えてきている。ところが、行政の側は依然として「世帯」を一つの単位とする見方を崩してはいない。
 転居してから約2週間たって、私のところに行政から派遣されて週に2回ホームヘルパーがやってくることになった。掃除、洗濯、炊事や買い物など、主に家事援助をしてくれる。
 1回2時間の仕事が終わると、仕事の内容や時間などを記録の書類に記入して私が確認の捺印をすることになっているのである。
 その捺印をする欄には、「家族確認印」と記されている。役所の側には別に深い意味はないのかもしれないが、私には家族と呼べる人はおらず、それでも「家族確認印」の欄に捺印をするということ自体に、なんとなく福祉サービスの対象となるような人は、当事者能力がなく、家族に庇護される存在と見られているような気がしてならない。
 市役所だけで午前中を潰してしまった私は、午後からは電話の加入の申し込みに出かけた。行動に大きな制約のある障害者にとって、外部との連絡手段として電話は命綱である。
 ところが、これも私の無計画のツケで、引越しをする前に電話に加入の手続をするのを怠り、この日になってしまっていたのである。加入の手続きはそれ程手間どることも無く終わった。しかし、手続きをサボっていた酬いは、それから2日後にハッキリした形でわが身に降りかかってきた。

12. 一般の人

 この小文が読者の目に触れる頃には、年が改まっているか、それに近い時期になっていることであろう。本来、月が変わろうが年が改まろうが、時の流れに変わりはないのだが、人間という生き物は、そうした「節目」の時期になるとそれまでの自分や周りで起こったいろいろなことを振り返り、もっともらしい「反省」をしたりするのが好きなようである。そこで今回は、少し視点を変えて、自分自身も含めて多くの障害者が「自立」を当たり前のこととして志向し、それがスムーズに実現できるようにするためにはどうすればいいのか、ということに思いを巡らせてみたい。
 先日、久しぶりにちょっと旅行をした。と言っても残念ながら遊びではなく、ご多分に漏れず(?)「自立生活」に関するイベントに参加するためであった。
 ここ何年かの傾向として、障害者の集まるところではほとんど必ずといっていいほどに「自立生活」というスローガンが聞かれるようになった。自立生活センターも、全国協議会に60を超える団体が加盟するほどになった。
 それだけ多くの障害者にとって中心的な課題になっているということかもしれない。
 でも、実際に自立を実現している障害者はそれほど多くはない。
 それどころか、私の周囲でも、初めから自立など自分には緑の無いことと言わんばかりに、自らの可能性に蓋をしてしまっている障害者も少なくない。そこが「課題」たる所以なのだろう。
 それはともかく、その日私は、このイベントに参加するため朝早くアパートを出発して、新幹線に乗るため東京駅の「障害者専用」の待合室にいた。この待合室は、車いすで使えるトイレや駅員と直接連絡が取れるインターホンなどを備えていて便利なこともあって、東京駅を利用する障害者のほとんどが、好むと好まざるとに関わらず何らかの形で利用している場所である。予定の列車の時間にだいぶ間があるのでこの部屋で待つことにしたのであった。
 しばらくすると、この待合室のトイレ掃除のオバサンが現れ、一生懸命に掃除を始めた。この待合室には、普段から「一般用」と間違えて入りこんで来る人が後を絶たない。それどころか、平日の昼時などの人気の少ない時間帯には、秘密の商談(?)をしているサラリーマン風の人やデート中らしきカップルが「利用」していたりして、私などが入って来るのを見て慌てて立ち去ったこともある。
 この日も、何人もの人が入り込んできた。すると、掃除をしているオバサンが、その都度ものすごい剣幕でその人たちを「追い返して」いるのである。
 「ここは『障害者』の人たちが使うところだから、あんたたち(『一般の人』)が来ると『障害者』の人に迷惑になるのよ」というのがオバサンの決まり文句であった。
 確かに、この待合室には、入り口のドアも含めて何ヵ所にも「障害者専用」である旨の貼り紙がしてあり、「一般のお客様のご利用はご遠慮ください」と書かれている。
 その意味では、オバサンの対応は正しいし、駅の設備管理に一定の責任を持つ立場としては当然のものと言えるかもしれない。
 それにもかかわらず、「一般の人」を矢継ぎ早に「追い返す」オバサンを見ていた私は妙な違和感を持った。
 それは結局、自分自身が「逆の立場」にいることが多いからであろう。
 つまり、障害者はマイノリティーであり、世の中のほとんどの物や制度は障害の軽い「一般の人」が利用することを前提としてつくられている。
 そのために、障害者が社会の中で普通に生きて行こうとすると、さまぎまな形で摩擦が生じることになる。思い返してみると、オバサンとまったく同じフレーズで「ここは『一般の人』たちが使うところだから、あんたたち(『障害者』)が来ると『一般の人』に迷惑になるのよ」というセリフを私自身、これまで何度言われてきたことだろうか。
 駅の待合室というような単純な機能しか持たない場所でさえこのように厳密に区別されているのだから、ほかの分野は推して知るべしである。
 重い障害を持っている場合、教育の場は養護学校、働く場は専用の作業所など、小さい頃からすべての点で障害のない人とは別の場所で別の時間を過ごすことが多い。したがって、障害者の狭い世界しか知らず、社会の状況がどうなっているのか、どういう資源が使えて何が使えないのか、また、そんな環境の中で人生を送ってきて、ある日突然「地域の中で自立しなさい」などと言われても、何からどう手をつけていいのかわからず戸惑ってしまうばかりである。
 一方、障害のない人たちにとっても、障害者は、別の学校に行って、別の所で働いて、別のところに住んでいるのだから、自分たちとはまったく別の世界に生きる別の人種であるかのような錯覚に陥ってしまい、無意識のうちに排除する側に回ってしまうこともあるようだ。
 近年、障害者に対する世間の風当たりが柔らかくなって、少しは生きていくのが楽になった、というようなことを言っている障害者がいる。
 確かに、以前に比べればあからさまに排除する人はずいぶん減ったとは思う。
 しかしながら、そうした態度は、大した自己主張もしないで、一年の大半を家の中だけで家族に守られてじっとしている障害者に対するものであって、以前にも少し書いたが、たとえば勉強したいとか、就職をしたいとか、家を探したいとか、結婚したいとか、普通の人間であれば誰でも考えるようなちっぽけなことでも、いざ重い障害を持つものが実現に向かって進みはじめようとすれば、周囲のガードはたちまち固くなるのが現状のようである。
 障害のある人とない人の間のギャップは、分野によって違いがあるものの、基本的にはあまり埋まっていないように感じる。
 お互いに、別の世界に生きる別の人種というような意識が消えないうちは、本当の意味での自立は難しいと思う。
 まず、物理的な「区分け」をできるだけ減らし、教育の場など、子どもの頃から日常的な生活環境の中で接触する機会を増やす以外に、このギャップを埋めることはできないのではないだろうか。
 障害のない人を「一般の人」と呼んでいる限り、前途は明るいとはいえない。

13. 一難去って、また一難

 どんな人にとっても、新しい場所で新しい生活を始めるということはそれなりの覚悟と準備が必要なものであることは言うまでもない。それでも、健常者であれば、住むところにしても、生活用品にしても、最低限度の条件さえ整えば「着の身着のまま」でも取りあえずは何とかなってしまようなところがある。しかし、私のような重い障害を持つ者が一人で生活を始めるというような場合には、設備や道具の面においても、マンパワーの面においてもある程度周到な用意が欠かせない。前にも書いたとおり、住まいにしても車いすで出入りが可能なところでなくてはならないし、介助者も朝晩を中心にどうしても必要であり、それらの準備が整ってはじめてどうにか人並みな生活が出来るわけである。
 ところが、元来ズボラな性分の私は、「周到な用意」とは程遠い準備不足の状態で見切り発車のような形で生活を始めてしまった。
 アパートに移り住んで2日目、役所での手続きに続いて電話の加入の申し込みに出かけた。前々回にも書いたように、電話は私のように行動の自由に制約がある者にとって外部との連絡を取るためのライフラインであり、その意味では、何よりも先に申し込みの手続きをしておくべきであった。にもかかわらず、慌ただしさに紛れて実際に暮らし始めるまでそれを怠っていたのである。そして、その報いは生活を始めて3日目に早くも明らかな形で私に降りかかってきた。
 私の身体は、電動車いすに座っている時には、十分とは言えないまでも最低限の行動の自由が保てるのだが、一旦車いすから離れてしまうと何をするのも不自由で全く無防備な状態となってしまう。そのため、夜間のさまざまな不測の事態に備えるという意味で、原則として毎晩介助者に泊ってもらうという形でローテイションを組んでいた。3日目はHさんが来てくれることになっていた。しかし、約束の9時を過ぎてもHさんが現れる気配は全くなかった。途方に暮れているところに、自立生活センターの運営委員をお願いしているKさんが偶然寄ってくれた。私が事情を話すと、Kさんはさっそく自立生活センターの事務所に行って電話で各方面と連絡を取ってくれた。案の定、事務所の留守番電話にはHさんからのメッセージが入っていた。どうもこちらのミスでアパートの番地を間違えて伝えてしまったようである。結局、Kさんが急遽泊ってくれることになって、その晩はなんとかしのいだが、私のミスが重なって多くの方に迷惑をかける結果となってしまって、「自立」の難しさを痛感した。

 生活にトラブルはつき物といってしまえばそれまでだが、その後もいくつかの事故が私を襲った。アパートで生活を始めて半年ほど過ぎた頃、朝、事務所に行く準備をしていたとき、車椅子の上で不意に体のバランスを崩し、車椅子の上で体だけ横倒しになってしまったのである。始めのうちは自分で何とかしようともがいてみたが、車椅子にベルトで固定していることが逆に災いして、体を動かすほどよけいにバランスが崩れ、体は倒れて行くばかりであった。もちろん電話などにも手は届かず、密室状態で声を出そうにも誰にも聞こえず、どうすることもできない状態に陥っていった。次第に頭が下がり、苦しさと脇腹の痛みで脂汗が流れ、意識が薄れていくことさえも感じながら、自分はこれからどうなるだろうなどと考えているうちに、3時間近くが過ぎてしまった。時間は、いつのまにかお昼を回っていた。その時、私がいつまでも現れないのを気にした自立センターの事務所のスタッフが、様子を見に来てくれたのである。まさに九死に一生を得るような思いでやっと、体を縦にすることができたわけである。
 3時間近くの間、宙づりに近い状態になっていた事もあって、念のために救急車を呼んで病院で検査をしてもらったが、特に異常はないということで一応は一件落着となった。
 介助者との連絡の件にしても、宙づり事件にしても、アパートと自立生活センターの事務所が近いという事が幸いして、大事に至らずに済んだようなものだが、もっと違う住環境を選んでいたら、事態はもっと深刻になっていたかもしれない。
 こんな事故はもうこりごりだと思っていた矢先、第3の事故(?)が、起こってしまった。週末を実家で過ごし、週明けに事務所に出るために電車に乗ってF駅へと向かっていた。通常は、乗車した駅から下車する駅へ列車の番号と私が乗っている位置が連絡されることになっているのだが、その日に限ってF駅への連絡が届いていなかったようで、電車がF駅に到着しても駅員は誰もホームに出ていなかった。そのようなことは滅多にないので一瞬戸惑ったが、とにかく下車しなければいけないので、私は電動車椅子を後ろ向きに動かした。直角に降りれば何とか降りられるという計算があっての行動だったが、結果的には少し斜めになってしまい。その為バランスを崩してホーム上に車椅子ごと横倒しになってしまった。額をホームのコンクリートに叩きつけられ、見る間に血があふれでてきた。駅員が駆けつけてきたホーム上の事務室で応急処置をしてくれたが、傷が深いようで血が止まる様子がない。その駅員の話では乗車した駅から連絡はあったようだが、乗車位置を間違えて連絡したということのようであった。また私自身も降りるときに周囲の乗客などに一声かけて手を借りていればこんな事にはならなかったはずである。しかし、それも後の祭りである。結局、応急処置だけではどうにもならず、またしても救急車の世話にならなければならなくなってしまった。
 まさか3週間の間に2度も救急車に乗ることになろうとは思いもよらないことであったが、これで終わりかと思う間もなく、119番の次には110番に電話しなければならない事になってしまった。
 ある日、仕事を終えてアパートのドアを開けると、部屋の様子が何となく変なのである。タンスの扉や引き出しがことごとく開かれており、ベッドの上の布団も全部まくられていた。いくらだらしがない私でも、これほど散らかした覚えは無いのである。最初は事態を飲み込むのに時間がかかかったが、どうやら空き巣に入られたらしいことは解ってきた。と言っても、犯人は金目のものを専門に狙っていたようで、貧乏暮らしをしている私を狙ったのがそもそも誤りで、別に盗まれた物があるわけではなさそうだったが、念のために警察に連絡をして調べるだけはしてもらった。その結果、部屋の裏側のガラス戸を破って進入したのが解り、実質的な損害はそのガラスの修理代だけという事で済みそうであった。

 そういうわけで、色々なアクシデントやトラブルに見舞われながらも、何とか2年近く生活が続いているわけである。その陰には、私の生活を支える多くの人たちがいる事は言うまでもない。そうした人たちとの関係を抜きにして私の生活はあり得ないわけで、次回は、その中の何人かの人たちを紹介方々まな板に乗せたいと考えている。

14. 十人十色

 繰り返し書いているように、私は、電動車いすに座っている間は移動や食事など最低限のことはどうにか自力で出来るものの、それ以外のこととなると、好むと好まざるとに関わらずすべての面で誰かしらの手を借りなければならない。例えば、着替えにしても、車いすとベッドやトイレの間の移動にしても、自力ではできない。そのような、言わば日常生活の基本的な部分にさえも他者による手助けを必要としているわけである。
 障害のない人にとって「自立」といえば、出来る限り他者の援助を必要としない(厳密に言えば「当てにしない」)生活を意味するのであろう。しかしながら、私のような者にとっては、逆に他者による手助けがあってはじめて「自立生活」が成り立つという構図になっている。他者の手を借りることと、「依存」という落とし穴に入り込むことをどうやって防いで自分の生活を作っていくかという、見方によっては相反する要素を含む問題について、周囲の人にどう理解してもらうか、そして障害者自身がどこまで納得できるかということが、自分も含めて自立生活の成否を占う一つのカギといえるかもしれない。

 面倒くさい理屈はひとまず置くとして、現実の私の毎日の生活が多くの人たちのカによって、支えられていることは言うまでもない。
 前にも書いたが私の日常は、昼間は自立生活センターの事務所で仕事をして、夜の9時になると介助者が釆て着替えとベッドに移るのを手伝ってもらい、そのまま同じ部屋に泊ってもらって、翌朝も同様に車いすに乗せてもらったり、身支度や朝食の準備などで手を借りて、朝の8時に介助者が帰っていく、というのがおおざっばなパターンである。この場合の介助者は、原則的には自立生活センターに「介助スタッフ」として登録している人たちである。
 自立生活センターのシステムをご存知でない読者も多いと思うが、「介助スタッフ」というのは、自立生活センターに会員として入会して、その上で介助活動に充てることができる曜日や時間帯、そして希望する介助の内容などを、あらかじめ登録しておいてもらって、電話などによる障害者などからの介助者の派遣を求める声に応じて、双方の条件が折り合った場合に、障害者のところへ行って介助者として働いてもらい、介助の時間や内容によって一定の「介助料」を支払う仕組みになっている。
 私が自立生活を始めた当初、なかなか介助者が確保できずに苦労していた。どうしても都合のつく介助者が見つからずに、一晩寝ないで過ごしたことも一度や二度ではない。当然のことながら、男性で宿泊まで伴う介助ができるほど時間的にゆとりがある人は多くはない。また、いくら「有料」とはいっても、介助という仕事の中身や重要性の割には、実際に介助者に支払われる額は非常に少ない。私の住む地域では、数年前から、家族が冠婚葬祭などの「一時的な用事」で家を空けた時に、代わって障害者の介助をした人に介助料を公費で助成する制度を始めた。私の場合は毎日の暮らしに介助の手が必要なわけで、そうした意味では制度の本来の趣旨とはだいぶ事情が異なるが、一応この制度による介助料の助成を受けている。しかし、その金額たるや障害者一人当たり年間五万円と桁外れに少ない。このような公的助成制度の地域格差も、自立生活を支える基盤を考える上で大きな問題となるが、そうしたものを併せても、私たち障害者自身の支払い能力は極めて限られたものでしかない。そんなわけで、やはり現状では介助を単なる「アルバイト」として考えるにはかなり無理がある。事実、介助者募集のビラ配りなどをすると、男女を問わず「手軽な副収入」を期待して応募してくる人もいるが、そういう人は「割に合わない」仕事であることがわかると、逃げるようにして去っていってしまう。

 そうした状況を考えると、いろいろな予定をやりくりして毎週のように私のところにやってきて、狭い部屋で一晩を一緒に過ごし、嫌な顔もしないで介助にあたってくれる人たちには、いくら頭を下げても足りない思いである。
 現在は、基本的に曜日ごとにローテーションを組んであり、それを週ごとに個々の介助者の都合によって調整するという方式をとっている。以前に比べれば、少しは介助者の数も増えて、ローテーションも組みやすくはなってきたが、それでもまだ絶対数は圧倒的に不足しており、特定の介助者の負担が大きくなりがちなことは、悩みの種である。
 それはともかくとして、一口に「介助者」といっても、その顔ぶれは実に多彩である。年齢的には十代から六十代までと幅が広いし、経歴も様々である。学生が多いのはある意味では当然だが、他にもサラリーマンあり、職人あり、定年でリタイアした人あり、求職中の人ありといった具合である。考えてみれば当たり前のことなのだが、どんな人間でも、それまで過ごしてきた環境や人生経験の違いはいろいろな場面に表われる。例えば一緒にテレビを見ていても、番組の好みはバラバラである。「ニュース・ステーション」という番組が好きで、ほとんど欠かさずに見ている人もいれば、まったく見ない人もいる。また、そうしたキャラクターの違いは単に趣味や嗜好の違いにとどまらず、介助の細かい方法にまで及ぶ。言ってみれば何もかもが一人ずつ微妙に異なっていて、まさに十人十色といった感じである。

 正直に言って、慣れないうちは毎日、個性のまったく異なる人たちと接することに、戸惑いを感じたり苦痛だったりしたこともないとはいえない。
 しかしながら、今となっては私にとって、こうした様々な人たちといろいろな話をすることが、自分自身の人間的な成長にも大きく影響することを実感し、逆に楽しみの一つになっている。彼らも、時によって違った面を見せてくれる。一緒にパソコンで遊ぶこともある。学生が、私の部屋に教科書やノートを持ち込んでレポートを書いたり、試験勉強をすることもある。仕事の続きを持ってくる人もいる。ラブレターらしきものを書いている人もいる。

 これからも、いろいろなユニークな人たちと出会うであろう。私としては、こうした出会いを通じて単なる「障害者」と「介助者」という枠を超えた人間関係を築いていきたいと考えている。

15. 鳴呼、リハビリテーション(前)

 前回の小文を送稿し終わって間もなく、私は2週間余りにわたって入院生活を送る羽目になってしまった。原因は、ご多分にもれず「二次障害」である。脳性麻痺の場合は、30才前後から体に本来の障害の副産物のような影響が表われることが多いとよく聞くが、それを裏付けるかのように、もう10年以上の間、私は首の痛みに悩まされてきていた。私の元々の障害は、脳性麻痺の中でもアテトーゼ(不随意運動)型と呼ばれるタイプである。つまり、自分の意志と関係なく体のあちらこちらに必要以上の力が入り、無駄な動きが出やすい。そんなわけで、長いこと生きていると、知らず知らずのうちに首にも無理な力が加わり続け、関節や筋肉の老化とも重なって、痛みや腕から指先にかけての痺れなどにつながってくるのである。早い話が「老化現象」である。
 痛みが出始めた初期の段階から、地元のC大学病院の整形外科へ通院していた。そこで行われた温湿布や首をカラーで固定するなどの治療法によって、一時的には痛みが和らいだように感じたこともあったのだが、その後痛みは利き手である左手の側にも出始め、3年ほど前からは指先にも痺れを感じるようになり、ものをつかむ力が弱くなるなど、日常生活への影響もしだいに大きくなっていった。
 いろいろな制約があって、障害者がきちんとした医療を受け難いということは以前からよくいわれているが、C大学病院での治療は厳密な検査に基づくものではなかったし、その意味では一時凌ぎの対症療法でしかなかった。それに、この病院に限ったことではないが、一般的に医療関係者の「障害」に対する無理解が目立つ。極端な例で言えば、私がひとこと、ふたこと口をきいただけで目をぱちくりさせるお医者さんに出会ったことも一度や二度ではない。長い間大学で何を勉強してきたのかと、逆にこちらが我が目を疑ってしまうこともしばしばである。これは、設備の面や人的な対応の問題以上に深刻である。障害に対する正しい理解なくしてきちんとした医療行為はありえないと思うからである。

 そんな状況もあって、私は自分の首の痛みというものに対して、ほとんど絶望的な気分になっていた。このまま通院を続けても、根本的な治療をしてもらえる見通しもない。やはり、一生首の痛みと付き合っていくしかないように思えていた。
 そうした矢先、埼玉県にあるB医科大学病院の「リハビリテーション科」に紹介するという話が持ち込まれた。近年、従来の医学の各分野の枠を超えた「リハビリテーション医学」が目覚しい発展を遂げているということは知っていた。しかし、その実態はよくわからないし、本当に効果があがるものかどうか疑問もあり、何よりも片道約3時間と、距離的にあまりにも遠いという問題があるにはあったが、率直に言って首の痛みが限界に近付いていたので、「わらにもすがる思い」で診察を受けてみることにした。
 初診の日、B医科大学病院の「リハビリテーション科」にたどり着くと、まず始めに長い問診を受けた。それも、体の状態に関することばかりではなく、生活のスタイルや仕事の中身から住まいの構造にいたるまで、詳細を極めた。この問診を担当したのが、車いすに乗ったS医師であった。後から聞いたところでは、学生時代にラグビーのプレー中に頚椎を傷めて車いすの生活になったとのことであった。

 余談だが、白衣を着て車いすで「颯爽と」病院内を走り回るS医師の姿に、私は一種の感動を覚えた。自分自身を含めて、「障害」を理由にして自らの可能性に枠を作り、その中に閉じこもってしまうような障害者も少なくない中にあって、初志を貫徹し、しかも他の医師たちとまったく対等に仕事をしている。つまり、医師としての仕事の中では、ほとんど「障害」を意識させない姿に感動したのである。社会の各分野の第一線にこのような形で活躍する障害者がもっともっと増えてほしいものである。

 一通りの問診が終わると、首のレントゲンを撮ってきてくださいという指示で、2階のレントゲン室へと向かう。出来上がったばかりのレントゲン写真を手にS医師のところにもどると、その写真を見るなり、「首の状態は相当悪いですね」とのことで、リハビリテーション科の他の医師も何人か呼び集められた。「首の骨が祈れているように見える」「いや、折れてはいないようだ」などの議論が続いているとき、この部門の責任者を務めるI医師が現われた。I医師は、私を見て、脳性麻痺特有の典型的な二次障害だと指摘し、今度はリハビリテーション科の20人近いスタッフ全員を集めた。そして、アテトーゼ独特のからだの動きや二次障害の特徴などについて、若い医師や理学療法士などに対して講釈を始めた。さらに、首の周辺だけでなく、足や腰の関節がどのくらい動くのかを細かくチェックするように指示した。
 考えてみると、「障害」の状態について詳しい検査を受けるのは30数年ぶりかもしれない。子どものとき以来であるから、運動機能の面でもかなり衰えているのは、自分でも感じている。長い間かかってきたC大学病院でも、首の簡単な検査ぐらいはしたが、体全体の動きやバランスまでは手をつけなかった。脳性麻痺に限らず、「障害者は老化が早い」といわれるのは、このように専門的な医療を受ける機会がなく、必要な処置がどうしても遅れがちになるという背景があるように思う。
 基本的な検査と、当面の応急処置としての痛み止めの注射などの後、I医師は、今使っている電動車いすにも首の負担になる要因がありそうだから、その面のチェックも含めて、しばらく調べてみたらどうか、といわれた。
 私としては、仕事の関係もあって、長く留守にするわけにもいかない事情もあり、「入院」という御託宣に戸惑いもあったが、この機会に自分をオーバーホールするつもりで同意した。
 そんなわけで、それから約2週間後、私の「リハビリ生活」がスタートしたのであった。

16. 鳴呼、リハビリテーション(後)

 わずか2週間の間とはいえ、入院という突然の出来事は、私自身はもとより、周りにいる人たちにも多少なりとも影響を与えずにはおかなかった。折しも、私が所属している自立生活センターでは、新年度が始まったばかりで、年次総会の準備に追われていたほか、新しい事業の開始をめぐって気がかりな問題もあったりして、事務局の責任者という立場としては何とも心残りの多い時期の入院となったものである。結局、前年度の会計監査を入院の2日前に受けるというような慌ただしさで、残りの仕事はすべて他の事務局メンバーに一任する形となってしまった。
 入院当日、朝6時前にアパートを出発する。本来はもう少し遅い時間でも構わないのだが、ラッシュに巻き込まれるのを避けるための自衛手段である。そのため、指定された時間よりもだいぶ早く病院に着いてしまった。それにしても、この病院の最寄り駅であるK駅の設備はよく出来ている。決して大きい駅ではないが、駅の出入り口と改札口、それにプラットホームの間にはそれぞれにエレベーターが完備していて、しかも、それが「障害者専用」という形ではなく、誰でも自由に使えるようになっている。近くに国立の身体障害者リハビリテーションセンターなどもあるので、あくまでも特殊ケースなのかもしれないが、少なくてもこれくらいの設備は、日本中のすべての駅でスタンダードになってほしいものである。

 入院の手続きをするために病棟へと向かう。看護婦さんから普段の生活の状況や現在の体調などについて質問や簡単な検査を受けた。一通りの手続きが済むと、病室の入り口には「リハ科 杉井和男」という札が出された。「リハ科」とはもちろん、「リハビリテーション科」のことである。この名札を見て、改めて自分が入院することが実感されてきた。
 午後からは、リハビリテーション科の治療室で本格的な検査となった、入院期間中、私の主治医となったのはH医師であった。独特の鹿児島訛りが印象的なH医師は、私と型通りの初対面の挨拶を交わすと、いきなり「私の姉も脳性麻痺なんです」と切り出した。聞くと、幼いときからお姉さんと両親の苦労を見て育ったことがリハビリテーション医学を志すひとつのきっかけになった、とのことであった。いろいろな人がいるものである。前回も少し書いたが、わたしは、自分の「障害」を医療関係者に正しく理解してもらうということに対して、ほとんど絶望感にも似た気持ちを持ち続けてきた。しかしながら、このような動機で医学の道に入ったとすれば、障害者に対する認識もほかの医師とは違うかもしれない。一人で勝手にそんなことを考えて、私は気持ちが少し明るくなるのを感じていた。
 さまぎまな訓練用具が並び、養護学校時代の「機能訓練室」を思い起こすような広い部屋の中で、理学療法士も加わって、詳細な検査が続く。肺活量や握力といった一般的な項目だけでなく、手、足、首、腰などの関節がどのくらい自由に動くかということについて、定規や分度器を使って調べるのである。そのほか、翌日には、首から下のほとんど全身のレントゲン写真も撮った。
 こうした検査の結果に基づいて具体的な治療の方針やいわゆる「リハビリ訓練」のメニューが決められるのであるが、私の場合は首への電気マッサージの他、首の負担を軽くするために重りをつけて腕を屈伸させるなどの腕力を強化する運動やマットの上で転がる運動などがメニューの中に取り入れられた。ただし、今回は、入院と同時に熱を出してしまい、十分な量の運動ができなかったのは残念であった。
 そして、今回の入院期間中のメインイベントともいうべき治療法が、退院を目前にして行われた。それが「神経ブロック注射」である。私には医学的なことはまったくわからないが、どうやら過敏な反応を起こす神経を遮断して、手足の動きを滑らかにするというような効果があるようである。実際、私もこの注射を打たれた途端に、それまでなかなか開かなかった股が不思議なほど楽に開くようになり、自分の「障害」そのものに対する見方さえも変わってしまうような気分になった。いずれにしても、2週間という短い期間であるとはいえ、今回の入院を通していろいろなことを感じた。
 従来、「リハビリテーション」といえば、「更生」という言葉で訳され、健常者の状態に一歩でも近付くことを強いられるというようなイメージがあった。そして、特に自立生活運動の側からは、障害者のことを一番よく知っているのも、また、生活の中身を決めるのも障害者自身であるという立場から、医師や行政の担当者など、いわゆる「専門家」と呼ばれる人たちの介入に対する反発もあった。
 しかしながら、今回入院した病院で見る限り、そうしたパターンが、個々の障害者のライフスタイルやニーズに合わせて各自が望む環境や身体的な条件がどうすれば実現するかということについて、医師と障害者が、大袈裟に言えば「共に模索する」というような方向に少しずつ変わってきているように見える。例えば、この病院では、医師が、患者である障害者の家庭へ直接出向いて、住宅改造のアドヴァイスまでしているようである。
 今後、自立生活運動だけでなく、障害者との関係の中での「専門家」の役割や位置づけがどのように変わっていくのか見守っていきたい。
 では、私自身にとって今回の入院の意味は何だったのか。正直に言って、まだ答えが出ない。確かに首の痛みは軽くなったが、注射の副作用と思われる下半身の痛みや体全体のバランスの崩れが続いているからである。一日も早く副作用を取り除いて、私なりの「リハビリテーション」を実現したいものである。

17. 私の贅沢

 世界にはいまだに食糧事情が安定せずに人々が苦しんでいる国や地域も珍しくないというのに、私たちのこの国は、「飽食の時代」といわれるようになって久しい。確かに、デパートやスーパーの食料品売り場を覗くと、選ぶのに困るほどの食べ物が所狭しと並んでいて、お金さえ出せばあらゆる種類の食べ物を簡単に手に入れることができる。また、外食という手を使えばほとんど世界中の料理を楽しむことだってできるし、逆に手軽に済ませようと思えばコンビニや弁当屋を利用すればいいということになる。食べるものも食べ方もライフスタイルに応じて選べる時代になった、という言い方も出来るのかも知れない。
 それはともかく、自立生活を始めることになったとき、食事の問題は大きな不安材料の一つであった。それまでの生活では、食事のことはすべて親に任せっきりで、食料品の売り場に足を踏み入れた経験さえもほとんどなく、私の役割はただ目の前に出されたものを食べるというだけであった。
 ところが、一人暮らしの自立生活となると、そう簡単にはいかない。当然、3度の食事ごとに、何をどう食べるかを自分で考えて、計画的に管理していかなくてはならない。それも、自分で料理を作ることは事実上不可能なわけだから、既製品を利用するか、誰かに作ってもらうか、というところから思いを巡らせなくてはならない。細かいことで言えば、冷蔵庫の中の残り物の始末も自分の責任である。そう考えると、それまでの自分がいかに責任のない気楽な生活を送ってきたかが実感された。
 あらかじめ覚悟していたこととはいえ、実際に自立生活を始めて2週間ぐらいの間は、毎日の3度の食事がほとんどコンビニで買った弁当やパンだけという状態であった。元々、私は食べるということに対してこだわりや執着がある方ではなかったし、好き嫌いもほとんどなく、どちらかといえば取りあえず空腹さえ満たせればいいというタイプだったのだが、さすがにこの時は少々うんざりしていた。そうかといって、引越し直後で何かと出費のかさむ時期でもあり、外食三昧というわけにもいかず、いささか途方に暮れていた。
 やがて、週に2度の割合でホーム・ヘルパーが派遣されることになった。つまり、週にこの2日だけは手作りの食事にありつけることになったわけである。とはいっても、ここでもやはり親とは違ってすべてお任せということは許されず、何をどのくらいつくってほしいかという指示を求められるのである。食事のメニューを自分で組み立てるという習慣がほとんどなかった私は、あわてて本屋へ出かけていって、「365日のおかず百科」というような本を買ってきてにわか勉強を開始せざるをえなくなった。本来なら、ヘルパーが来たときに1週間分をまとめて計画的に作っておいてもらえばいいのだろうが、残ったときのことなどを考えると、それは気が進まなかった。食事作りに専門の介助者に来てもらうことも考えたが、いろいろな問題があってローテーション化するにはいたらなかった。
 結局、週末は実家に帰ることが多いということもあって、週に2日はホームヘルパーに作ってもらい、それ以外の日は既製品を買ってきて食べればいいや、と思うようになり、そのつもりでスケジュールを考えていた。

 そんな矢先、「救いの神」が現れた。当時福祉系の大学の学生で、以前から介助スタッフとして私たちの活動に熱心に協力してくれていたNさんが、私が自立生活を始め、介助者が足りなくて困っている、という話を聞いて様子を見に寄ってくれた。話の中で彼女は、「食事はどうしてるんですか」と聞いてきた。私が、「月曜日と水曜日はヘルパーさんに作ってもらって、あとはコンビニで弁当とか買ってきて食べてるよ」と答えると、「もしよかったら、私たちが作りに来ましょうか」と言ってくれたのである。意外な申し出に少しビックリしたが、私は喜んで彼女たちの好意を受けることにした。聞くところによれば、彼女たちは以前ボランティアとして一人暮らしの高齢者のところに食事を作って届けるという活動をしており、そうした活動の延長線上に考えてくれたようである。
 そんなわけで、次の週からNさんと同級生のTさんが火曜日と木曜日に自分たちでローテーションを組んで食事を作りに来てくれることになった。純粋なボランティアという形で、私の負担は材料費の実費だけであった。
 前にも書いたことがあるが、私の1週間は、金曜日の夕方になると実家に帰り、月曜日の朝にアパートに戻るという「単身赴任」のような生活が習慣になってしまっている。ということは、NさんとTさんが来てくれるようになることによって、アパートで過ごす月曜日から木曜日まで毎日手作りの夕食が食べられるということになったわけである。しかも、ホームヘルパーというのは「一定以上」の年齢の人が多いので、「熟年世代」の味と、若い人の作る味を一日おきに楽しめることになる。考えてみれば、なんとも贅沢な話である。
 それに、単に食事の用意という枠を超えて、料理をしてくれている間にいろいろな話をすることも私の楽しみのひとつとなった。授業の話、アルバイト先での話、実習の話、卒業論文の話など、いろいろな話を聞かせてくれた。
 また、時にはハプニングもあって、以前にも書いたドロボー騒ぎの時にも、警察官が4人も来て指紋を採ったり足跡を調べたりしている最中にTさんが来てくれ、字を書くのが苦手な私に代わって「被害届」を書いてくれた。それだけで済めばよかったが、この種の書面は「書いた人」の拇印が必要だということで、結局彼女まで指紋を採られるハメになってしまった。警察官が引き上げた後、Tさんは、「私、一生悪い事できません」と言っていた。
 私だけでなく、自立を考える多くの障害者にとって食事の問題は大きな課題となっているようで、他の障害者と話をしていると、食事はどうしているのか、と聞かれることがある。そのたびにNさんとTさんの話をすると、一様に「羨ましい」といわれる。改めて我が身の幸運を感じるばかりである。
 とはいえ、時の流れは止まることはなく、2人とも今年の3月で無事に大学を卒業した。本当なら、卒業と同時に私のところへくることも出来なくなるはずであった。ところが、それぞれ若干事情は異なるものの、2人とも正式に社会人としてスタートするのに多少の時間的余裕が生ずることになり、期せずして私のところへ来てくれる期間も数ヵ月間自動延長される結果となった。この「自動延長」の期間も間もなく終わることになっている。2年数ヵ月にわたっておいしい夕飯を作ってくれた2人にこの場を借りてお礼を言いたい。

 それにしても、週に2日だけでなく、365日3度の食事を作ってくれるような女性はいつになったら現れるのであろうか。

18. 人生を変えた出会い

 とりとめもなく、拙い文章を書き連ねてきたこのシリーズも、いよいよ残り少なくなった。文中にも多彩な人物にご登場願ったが、もちろん、私のような重い障害を持つ者が曲がりなりにも自立生活を実現するまでには、その中では紹介しきれないほどの人たちとの出会いがあり、多くの人に支えられて今日という日を迎えているわけである。
 そうしたたくさんの出会いの中でも、たった一人の人物との出会いがそれ以後の人生を大きく変えてしまうことが誰にでもあると思うが、十代の半ばで出会ったM氏は、私にとってまさしくそんな存在であった。現在の自立生活センターを考える上で、そして何よりも私自身のこれまでの人生を振り返ったときに、M氏のことを抜きにして語ることはできない。本誌の常連の執筆陣の一人であり(そういえば私にこのシリーズを書くように薦めてくださったのも同氏であった)、障害者運動の世界での活動歴も非常に古いので、今更イニシャルで書いてもあまり意味があるとは思えないが、その辺はご容赦いただきたい。
 M氏と私の出会いは、今から約30年も前にさかのぼる。M氏は当時、F市を中心として障害者の地域グループを結成して活発な活動を行っていた。同じ頃、私の父が福祉関係の仕事をしていたことから、始めは父とM氏が知り合い、私は父を通して知り合うという形となった。
 特に私が養護学校の高等部を卒業して「在宅」の生活になった頃から、M氏は、自らの主宰する地域グループで何かイベントを開くたびに電話などで熱心に私を誘ってくださった。それも、「並みの」熱心さではなかった。その頃の私の印象では、まさに「手を変え品を変え・・・」という感じだった。
 一方、当時の私は、今から考えると遅まきながら自分の「障害」を強く意識しはじめていた時期にあたり、気持ちの上で、自分自身を含めた全ての「障害者」に対する拒否反応が非常に強かった。気持ちが外の世界に向くということが一切なく、庭へ出ることさえも嫌で、ひたすら自室に閉じこもるという生活が養護学校を卒業以来4〜5年も続いていた。
 もちろん、そんな精神状態であったから、M氏の誘いを素直に受けられるはずもなく、今度は交流会だ、次は旅行だ、その次はシンポジウムだと繰り返される誘いにも、「しつこい人だなぁ」と思いながら、いつも理由にならない理由をつけては断り続けていた。
 しかし、私のそうした不遜な態度にもかかわらず、M氏の電話攻勢は途絶えることはなかった。
 私の方は、次第に「根負け」するような結果となり、始めは何回かに一度くらいのペースだったと思うが、M氏の障害者グループの会合に出席するようになっていった。
 そうしたことを繰り返すうちに、私はM氏の中に自分自身がそれまで漠然と抱いていた「障害者」に対するイメージと違うものを感じるようになった。それは、一言で言えば、「障害者らしくない障害者」と初めて出会ったという感覚であった。
 M氏は、障害自体は私と比較しても甲乙つけがたいほど重いのに、会って話をしていると、それをほとんど意識させない。
 弁舌がさわやかという印象を受けるのも、単に言語障害があるとかないとかという次元の問題ではなく、幅広い知識と、私など足元にも及ばない鋭い洞察力のなせる業であろう。
 それまで私自身や周囲にいた障害者の多くが、いつも全てのことに内向きになり、ものも言わずに一方的に自分で自分にワクをはめていたのと違い、自らの悩みや要求をストレートに表現し、社会に訴えていく姿にショックと感銘を受けた。
 そして同時に、そうしたM氏の「生きる姿勢」の影響を受けて、次第にある種の精神的な呪縛から解き放されていったように思う。
 やがて、ある新聞社からM氏の主宰する障害者グループに電動車いすが寄贈されるという話が舞い込んだ。
 当時、電動車いすといえば、国産のものが出始めたばかりの頃で、補装具としての交付の対象にも入っておらず、便利な道具であることはわかっていてもおいそれと手に入れることの出来る代物ではなかった。
 ところが、そんな「高頴の花」だった電動車いすが、M氏の配慮で、グループに贈られた中の一台を私がいただくことになったのである。
 この時の電動車いすとの出会いが私に行動の自由をもたらし、そのことが私の生活をどれだけ大きく変えたか、ということについては前にも書いた通りであるが、このように考えてみると、「生きる姿勢」というか、障害者としての生き方についてM氏から多くを学び、さらに、いわばそれを実践するためのひとつの手段としての電動車いすも同氏との関わりの中で手に入れたことになる。そればかりか、やがて時は過ぎて、M氏のグループの一員であったY君の誘いを受けて自立生活センターを作ることになったのであるから、何かしら運命的なものを感じずにはいられない。

 速いもので、私たちの自立生活センターは、正式に発足してから丸5年(編者注:1996年執筆時点で)が過ぎた。M氏にはこの間、代表の仕事をお願いしている。この夏からは、国と自治体から補助金を受けて「生活支援事業」という新しい事業がスタートし、忙しさに拍車がかかっている。一方で、そうした忙しさとは裏腹に、センター自体の実態を見ると、財政的には相変わらず火の車だし、自立を目指すような仲間の障害者も思ったようには増えてはいない。また、私たちの生活を支える介助スタッフの不足も慢性的に続いている。
 原因としては、いろいろなことが考えられる。場合によっては社会的な要因も含まれていて、私たちの力ではどうすることも出来ない問題もあるだろう。
 しかし、私自身の反省として、M氏から学んだことを十分に実践し得ていないことに最大の原因があるという思いが強い。つまり、自立生活センターの活動の中で、一人の障害者として「自らの悩みや要求をストレートに表現し、社会に訴えていく」という作業がまだまだ足りないように思うし、また、相手から「しつこい人だなぁ」と思わせる程の情熱を持って仲間作りに取り組むことも十分に出来ているとは言えない。
 それらのことが日々の活動の中で本当に実感できるようになることが、長年のM氏の応援に報いる道のように思う。

19. 知らんぷりじゃないか!

 少しも自慢できることではないが、生来の怠け者の私は、何事によらず締め切りギリギリにならないとなかなか手をつけない、という悪い癖をいまだに直せないでいる。本紙の原稿も、いつも土壇場になってやっと書き始める、といった調子である。
 このところ、このシリーズの原稿を書くときは、泊まりの介助者を断って、夜を徹して一人でパソコンに向かうことが多くなった。確かに、「生活」という面から考えると、介助者の存在無しには成り立たないのだが、逆に、ものを書く仕事など何かに集中したい時には、一人の方が効率が上がるし、狭い部屋の中で一晩中灯りをつけてキーボードをカシャカシャやられては介助者も寝られないだろう、と思うからである。この辺は、生活の中身や住環境の問題も絡んで結構厄介な問題である。もう一部屋あれば、介助者にそこで待機してもらって・・・などと考えることもあるが、今の段階では、見果てぬ夢である。
 というわけで、今回もこの拙稿を書いている今は、某日の午前1時過ぎである。徹夜に備えてあらかじめ用意しておいた飲み物で喉を潤しながら、次は何をどう書こうかと頭を悩ませているところへ突然ドアがノックされ、介助スタッフとして私のところへもよく泊りに来てくれているS君が現れた。私たちの自立生活センターの設立5周年の記念の集いの関係の書類を届けに来た、ということだった。私の隣りの部屋は、この7月からF市の委託を受けて始まった「生活支援事業」の相談室という形で自立生活センターが借りており、そこの郵便受けにでも入れて行くつもりでいたらしいが、私の部屋から灯りが漏れているのを見て、様子を見に顔を出してくれたようである。
 S君の本業は、ロックのシンガーソングライターである。この時も、新しいCDのレコーディングの合間を縫って真夜中に届けに来てくれたわけである。駅前で「介助者募集」のビラを受け取って、すぐに応募してきたのは、彼がレコード・デビューを果たした直後のようだった。正直に言って、私自身、初めは「ロック歌手と介助者」という取り合わせに戸惑いがあった。しかし、初めて泊りの介助を頼んだ時に、いろいろな話をして、そして何よりも、彼が持ってきてくれた初めてのCDを聞いて、私の中の戸惑いは一蹴された。そのCDの中で、彼は世の中のさまざまな非情さや矛盾を歌に乗せて怒っているのである。
 中でも、そのアルバムの冒頭の曲の中で、彼は「知らんぷりじゃないか!」という言葉をキーワードにして、世間の冷たさを唄っている。例えば、町で募金を訴える弱者がいても、或いは世界の果てで悲惨な出来事が起こっても「知らんぷりじゃないか!」というわけである。つまり、彼にとっては、私たちの介助者募集のビラを見てすぐに応募してきたのは、歌の中での自らの主張を実践するという意味では、自然な成り行きだったのかもしれない。
 それはともかく、私自身の毎日の生活を振り返ってみても、いろいろな場面で「知らんぷり」をされることがあまりにも多い。駅前を歩けば移しい数のティッシュペーパーが配られているが、私の手に渡される確率は宝くじに当たる以上に低い。目の前を通り過ぎても、配っているお姉さんたちは、私たち車イス族には、「知らんぷり」である。そういえば、つい先日、いつもと同じように駅に向かって電動車イスを走らせていたら、パーマの割引券を配っているオジサンが、私に割引券をくれた。いつもは黙って見過ごすオジサンがこの日に限ってどうして割引券をくれたのだろうか。オジサンの胸に聞いてみないと断定はできないが、どうやら私がその日は珍しくスーツを着ていたことと関係がありそうである。私が当初S君に「戸惑い」を感じてしまったように、意識しているか否かに関わらず、ちょっとした「見た目」のイメージで相手を判断してしまうことは人間の常である。S君が受け取ってくれた介助者募集のビラにしても、私たち障害者が差し出した時には受け取らないのに、周りにいる健常者からはすんなりと受け取る人は非常に多い。
 厳密に言えば、ティッシュペーパーにしろ、パーマの割引券にしろ、普通に歩いている人がもらえるものが車イスに乗っているためにもらえないわけだから、一種の社会的不利益には違いない。しかしながら、もっと深刻なことは、必要があってこちらから何らかの行動を起こした時に社会の側から「知らんぷり」をされることである。
 私は以前、少しでも収入の道を確保したいと思い、新聞で見つけたパソコンを使った在宅勤務者募集の広告に応募したことがある。履歴書に記入し、応募の動機の欄には「障害があっても出来そうだから・・・」と書いて送った。ところが、これが仇となったらしく、いくら待っても先方からは合否の通知さえも来なかった。こちらから問い合わせてみようかとも考えたが、結局、自分が空しくなるだけのような気がしてやめてしまった。この時私の頭には、何人かの女性にラブレターらしきものを書いて、同じように返事さえももらえなかった苦い思い出がよみがえっていた。これらのケースに共通する心理としては、多分、断ることで私が傷ついたり、或いは「差別だ」などと反撃してくることを恐れて、「触らぬ神に崇りなし」とばかりに「知らんぷり」を決め込んだのではないだろうか。
 求職の申し込みとラブレターを同列に考えるのは無理があるかもしれないが、いずれにしても、正当な理由があるのなら堂々と断ればそれで済むはずなのに、その当たり前の対応さえもされない状態というのは、一人前ビころか半人前にも見られていないことを意味する。
 そのように考えると絶望的な気分にもなりかねないが、一方で、S君を含めてたくさんの人たちが、私たちの訴えに対して「知らんぷり」ではなく、積極的に応えてくれたこともまた事実であり、その結果として、現在の生活や活動が成り立っているわけである。
 世の中、意外に捨てたものではないかもしれない。懲りないで、またラブレターでも書いてみようかナ。

20. さらなる自立を目指して

 周囲の者からは「年のせいだ」と笑われるが、時の流れがいやというほど速く感じられるようになってきた。気がつけば、公私共にいろいろなことがあった1997年も、いつの間にか残り少ない。個人的には入院を含めて体調の不安定な時期が多く、例年に増してやり残したことばかりが頭を過ぎる。
 今回で、この拙い連載も一応のピリオドを打つことになった。これを機に、改めて自分自身や自立生活センターの置かれている状況を振り返り、今後への展望を考えてみたい。
 以前にも書いたように、私たちの自立生活センターは、今年、設立5周年という節目のときを迎え、そして先日その記念のイベントを開いた。思い起こしてみても、Y君と私の2人の障害者が大した見通しもなく始めた組織が、曲かりなりにもここまで来ることが出来たのは、何よりも周囲の人たちの物心両面にわたる大きな支援に恵まれたおかげである。活動の範囲も徐々にではあるが広がってきていて、特に、この夏からは地元のF市より「市町村障害者生活支援事業」という事業の委託を受けるようになった。この事業は、国の「障害者プラン」に基づく施策の一つで、国が半分、残りを都道府県と市町村が半分ずつ費用を拠出して行うことになっており、内容的には、広く地域社会全体の障害者やその家族などから生活全般にわたる相談を受けて、いろいろな情報を提供したり、必要に応じて関係する各機関や専門家などへの橋渡しを行う。従来の行政の窓口だけでは対応できにくかった問題、たとえば「障害者でも住みやすい住宅を斡旋してほしい」などという相談にも専門家の力を借りながら応じることになっている。いずれも、不十分ながらも私たちがこれまでも手がけていたことが多いのだが、障害を持つ当事者が自らの経験も踏まえて相談に応じる活動に対して公的な助成が出るようになった、というところに大きな意味があると考えられる。
 そんなわけで、私たちの自立生活センターにとって、この事業の委託を受けるようになったこと自体、大きな出来事であり、一つの前進であるには違いない。しかしながら、設立5年目を迎えた今、克服しなければならない課題は多い。その課題とは、ひと言で言えば「組織基盤の脆弱さ」である。私に続いてY君も昨年から同じアパートで自立生活に入った。その点ではセンターを設立するときに掲げた大きな目標の一つは取りあえず達成したことになる。しかし、いつまでも私たち2人による2人のためのセンターというわけにはいかない。その後に続く仲間をつくることが何よりの急務である。このところ何人かの障害者が「自立したい」と名乗りをあげており、いろいろな事情で実際に自立を実現するまでにはもう少し時間がかかりそうではあるが、何とか私たちの後に続いてもらいたいと願っている。
 また、財政的にもまだまだ脆弱である。「障害者生活支援事業」の委託を受けて補助金が出るようになったとはいうものの、それ自体はあくまでも「事業」に対して拠出されるものであり、センターの運営そのものに対するものではない。もちろん、支出の項目の中にはリンクできるものもないわけではないし、まだ「工夫」の余地はあるかもしれないが、本来の趣旨からいってもセンターの財政を安定させるような性質のものではない。したがって、センター独自の財源確保が課題となる。折から、世の中の経済情勢も何となく厳しくなってきているようである。私たちのような団体は、こんな時にしわ寄せを受けやすい存在であることは言うまでもない。行政当局も口を揃えて「財政危機」を唱えている。道は非常に険しいが、財政の安定無しに活動の拡大はありえない。
 このシリーズの始めの頃に、センターの設立前後の頃の様子を書いたが、こうして振り返ってみると、「組織に重要なのは『人とお金』である」という原点に立ち返る必要があるのかもしれない。
 さて、最後は私自身のことについてである。速いもので、私のアパートでの生活も2年と8ヵ月がすぎた。生活自体はそれなりに安定している。ただ、それでは今のままの状態がずっと続けばいいのかといえば、必ずしもそうではない。
 第1に、このところ体力の低下が著しいのを実感する。これは、介助者の都合などもあって、朝早くから夜遅くまで、平均して1日18時間ぐらい電動車いすに座ったままという生活を続けていることが原因と考えられる。出来れば車いすを離れて、体を伸ばす時間をもっと作れればいいのだろうが、今の住宅構造や介助体制ではなかなか難しい。なんとかそうした時間が作れるようにしないと体がボロボロになりそうである。
 第2は、第1の問題とも関係するのだが、家の中の「機械化」を実現することによって、介助者の負担を軽くしたいということである。具体的には、移動をサポートする機器を導入することで、車いすとベットの間の移動やトイレや風呂に入るときにも介助者の負担を最小限にとどめることも課題の一つだ。
 第3は、「パートナー」の問題である。いくら自由で快適な自立生活といっても、将来のことを考えると、このまま一生独りで暮らし続けることは、あまりにも味気なく寂しい気がする。出来ることなら気の合うパートナーを見つけて、一緒に人生を分かち合いたいものである。
 アメリカで生まれたといわれる自立生活運動が日本に入ってきて十数年が経った。今や日本の各地に自立生活センターが続々と誕生し、全国協議会に加盟しているだけで70を超える数に達している。アメリカの自立生活運動は、その成立の過程で黒人解放運動の強い影響を受けたという話を聞いたことがある。有名な黒人解放運動の指導者キング牧師は、演説の中で
「私には夢があるのです。いつの日か私の幼い四人の子供たちが、皮膚の色によってではなく、どんな内容の人間かということによって評価される国に住むようになる夢が」(猿谷要著「キング牧師とその時代」NHKブックス)
と語ったが、これは障害者にもそのままあてはまるように思う。つまり、障害があるとか無いとかではなくて、どんな内容の人間かということによって評価されるような社会になったときに、本当に障害者が暮らしやすい世の中になるような気がする。そして、そうした社会が実現したときに本当の「自立」が実現するように思う。1997年が残り少ないということは、「激動の世紀」といわれる20世紀もいよいよ押しつまったことも意味している。来たるべき次の時代が障害者を含む全ての人にとって暮らしやすい世の中になることを願わずにはいられない。