NPO法人 船橋障害者自立生活センター フリースペース 2020年7月16日 更新

カフェ・ベローチェ

 ベローチェ外観  市中央公民館斜め前に喫茶店ベローチェがある。週に四回ほど、朝のコーヒーを飲みたく、9時すぎにはベローチェに行く。このベローチェという語感は、ロシア語のようでもあり、またフランス語のようでもある。べローチェの頭文字はBではなくVなのだ。店内に入ると、喫茶特有の匂いがしてくる。
 正式には、「カフェ ベローチェ シャノアール」というのだそうだ。
 店員はほとんど女性。長めのエプロンを首からかけ、客の注文に応対している。エプロンの色は赤。ベローチェの色である。
 私がこの店にいくようになったのは、とくに半年前から。車いすの仲間の一人とともに毎日のように行った。アイスコーヒーを飲みながら、よく歓談したものだ。広いガラス窓からさんさんと日が射している。談笑している客もいれば、その中で新聞や、本を広げている客もみえる。

 私たち2人が行き始めた頃は、出入り口に2段の段差があって入りにくい状況ではあった。でも店員と客との協力のおかげで、店内にはいることができた。
それから少し経った朝、いつものようにいってみるとベローチェの入り口にスロープがかかっているではないか。バリアフリーになっている。
「これで自由に入れる」私たちはそれからというもの、毎日のようにセンターの前で落ち合い、ベローチェへ通った。ベローチェの前のスロープ
 ところが最近、あのスロープが取り外されるということがあって、私は当センターの中でしかたなく、缶コーヒーで済ませていた。飲むたびにベローチェの味が思い出されてくる。そのベローチェがまたスロープを着けたとの情報が私の耳に入った。私はすぐに店に向かった。ベローチェの香りが私を包み込んでくれた。
 バリアフリーの時代といわれているが、個々の商店にも、小さなビルに対しても、私たち重度障害者でも入りやすく、使いやすい、公・民に関係なく、その精神が今後生かされることを強く望む。

(05・12・05)

外へ出よう

 最近、1ヶ月に2本の割合で私は映画を観ることにしている。やっぱりTVで放映されたものとは違ってCMも途中で入らない。カットもされていない。大画面のど迫力。それにドルビーステレオの大音響。これは家の中では絶対に体験できない。
 「ハウルの動く城」「北の零年」「隠し剣 鬼の爪」等、ここに上げた作品はみんな評判の良い映画であり、観終わったあとの幸福感につい酔いしれてしまうのは私だけではないだろう。
 いまでは「シネマコンプレックス」といって、ひとつのビルの中に複数のスクリーンを設置。時間があれば1日に2,3本の映画が観られるというわけ。私が行く「京成ローザ」では車イス用のトイレもある。 いままでの「バリアフリー」の概念は、おおよそ「鉄道」や、「道路」「公共施設」を中心に生活にウエイトをもたせていたが、こうした娯楽面においては、遅れ気味だったように思うのである。エレベーターも設置され、料金も割安で、障害者、介助者ともに千円である。 1階には、有名な「スターバックス」があって、珈琲をゆっくり飲みながら、さっき観た映画の感想などを介助者と話してみる。このような楽しみを味わうことは、私の過去にはなかったことである。これも支援費制度の『移動介護』のおかげである。 競技場などもっと整備しなければならないところは多くあるはずである。そこには私たち障害者が健常者と同等に憩える空間がある。その空間を探し、自分たちの声で造っていかなければならないだろう。 もともと私は映画好きであった。映画をこれからもドシドシ観よう。春が巡ってくる。外へ出よう!

(05・02・21)

理髪店と喫茶店

 私が一人で地域の中で自立生活を続ける上で、バリアだと思われてならないものがふたつある。私たち障害者にとってバリアは日常どこにでも巣食ってはいるが、私にとってのバリアとは、理髪店と喫茶店なのである。
 理髪店は、髪の衛生を保つためにあり、おしゃれは二の次かもしれない。それができない。床屋に行けないのである。いや、床屋の前までは行くことは可能でも中には入れない。あの鏡の前の椅子に座り直さなければならないからだ。きちっとヘア・スタイルを決めてデートに、なんてことができず、のばしぱなっしの荒れ放題が続く。不衛生限りないとはこのことである。到底、私には耐えられないことだ。長くても2、3ヶ月、それ以上は我慢ができない。
 前に一度、近くの理髪店を尋ねて、整髪してくれるか聞いてみた。店主からの答えは実にあっけないものであった。「体の調子が良くないもので」というのが理由だった。ていよく断られたのである。この理髪店の入り口はフラットで、車椅子でも充分に入れる。私は私なりに観察した結果、私の整髪ができるのかを聞いたのである。そうしら、上記のような答えが返ってきたという訳だ。他の理髪店の出入り口には、高い段差があるか、もしくは間口が車椅子が入れる幅にできていない。バリア・フリーにしなければならないもののひとつである。誰でも利用できるものにしていかねばならない。駅と同様に公共性のある職種のひとつと考えていい。

 このあいだ、京成「船橋駅」まで人を送った帰り、コーヒーが飲みたくなって、小さな喫茶店に入った。店員に扉を開けてもらった。
 「どうぞ」店員が私を招き入れようとした。しかし、私は店内を見て驚いた。所狭しと入口にデーンと自動販売機が置いてあって、中には入れない。カウンターが自動販売機のそばから奥へと延びており、椅子とテーブルをはさんで狭い通路があるのだが、その通路さえもバリアだらけだ。入口に自販機が置いてあるため、通路が狭く、車椅子が入れないのである。店員とマスターが2人掛かりで車椅子が入れるようにと、自販機の位置を少しづつずらすことになった。喫茶店に入ってコーヒー1杯を飲むためにこうまでしなければならないのか。うんざりしてくる。よっぽど飲まずに出てしまおうかと思ったが、香りに釣られて1番奥のテーブルの脇に陣取って、たった1杯のコーヒーを啜ったのだった。
 JR船橋の南口から貫いている駅前商店街には喫茶店が3店あり、私が入った店は2店。どれもこれも薄暗く、車椅子で入るのには度胸がいる。くり返し言うが、いずれの店内も超狭いのである。おいしいコーヒーを味わいながら、語らうひとときというものは、現在、遠い話しでしかない。無縁なところに置かれているのが実態なのである。障害があろうがなかろうが、誰でもが平等に自由に楽しめる。こういった環境を官・民ともに作ろうという気運がない。よくいって「バリア・フリー」だろう。 
 「バリア・フリー」は既存のものをいかに使いやすいものにしていくかであって、ユニヴァーサルデザインのように、計画の段階から誰でもが使いやすいようにと、こうした考えを元にして創り上げていく。こうした基本的な考えがなぜ日本に根を降ろさないのだろうか。いつまでたっても日本は「バリア・フリー」「バリア・フリー」と叫ばなければならないのだ。哀しいことである。
 街作りにも必要、且つ重要な考えのひとつと思う。

(01・11・08)
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